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「一人は万人のために、万人は一人のために」
庄内医療生活協同組合 鶴岡協立病院

プロフィール

庄内医療生活協同組合 鶴岡協立病院

鶴岡協立病院(山形県鶴岡市文園町)

 山形県鶴岡市は日本海沿岸にある人口約13万人の都市である。江戸時代には庄内藩の城下町として盛えた庄内地方南部の街だが、現在は全国有数の稲作地帯であり、郊外には庄内米やだだちゃ豆の農地が広がっている。日本を代表する時代小説家である藤沢周平の故郷としても知られ、風景の美しさから「おくりびと」や「蝉しぐれ」などの映画のロケ地にもなっている。
 鶴岡協立病院は庄内空港から車で30分、JR羽越本線の鶴岡駅から車で10分の場所にある一般病院として、地域の急性期、慢性期医療を担っている。内科、消化器内科、外科、心臓血管外科、整形外科、産婦人科、皮膚科、小児科、泌尿器科、放射線科、リハビリテーション科を標榜し、病床数は一般病床195床、人間ドック4床の199床となっている。
 今回は鶴岡協立病院の堀内隆三院長にお話を伺った。


堀内 隆三 院長

堀内 隆三 院長 プロフィール

長野県出身。1979年に山形大学を卒業後、山形県民医連(鶴岡協立病院、至誠堂総合病院)で初期研修を行う。1981年に国立がん研究センター中央病院病理科、北海道勤医協中央病院で研修を行う。1982年に日本大学医学部第一病理科で研修を行う。1985年に鶴岡協立病院に帰任する。1995年に鶴岡協立病院副院長に就任する。2011年に鶴岡協立病院院長に就任する。
日本病理学会専門医・研修指導医、死体解剖資格認定医、日本肝臓学会認定医、日本医師会認定医産業医、人間ドック専門医など。

病院の沿革

 庄内医療生活協同組合は1964年に529人の組合員と68,700円の出資金、1人の医師と数人の職員で出発した。

 「1964年6月に新潟地震が発生し、この地域も被災しました。ここから10キロほど離れた大山地区は酒造りの街として有名ですが、そこが大きな被害を受けました。
酒蔵や民家が被災する状況の中で、北海道、宮城、秋田の民医連加盟の医療機関から救護班が出され、医師が入れ代わり立ち代わりボランティアに来て、仮設診療所を作ったのです。
当時の医療機関は敷居が高い存在で、すぐに診てもらえるものではなかったのに、仮設診療所では無料で診察が行われ、壊れた家に往診してくれる医師もいました。
このような医師の姿を見た地域の方々が募金を呼びかけ、全国の生協組合員からも地震カンパが集まったんです。60万円ほど集まったうちの10万円が医療生活協同組合設立準備会に設立基金として寄付されました。大山地区は生協組織の発症の地でもあり、そういった風土があったのでしょうね。」

 12月6日に創立総会があり、1965年1月4日に人見協立診療所が開設された。
これにより、「地域の人を分け隔てなく診てくれる医師がいる診療所を作りたい」という地域の人の望みが叶えられた。

 1972年に庄内医療生活協同組合の現理事長である佐藤満雄医師が常勤医師として着任する。
1973年に双葉町に鶴岡協立診療所を開設した。これが1974年に25床の病院となる。

 その後、訪問看護や人工透析を開始する。人工透析は庄内地方初の施設となった。そして、1978年に173床の病院が完成し、CTを導入したほか、脳神経外科を新設する。
1979年には大山診療所の開設があった。堀内院長が大学を卒業したのもこの年のことだった。

 「私は学生の頃に研究会を作り、スモン薬害の患者さんの援助活動や無医地区の訪問調査活動を行っていました。
無医地区を訪れては皆さんがどんな生活をし、どのような健康状態なのか、医療に希望することは何かなどを伺ったのです。
その活動を通じて、山形県が医師不足に悩んでいることを知り、少しでも貢献しようと、山形県に残ることを決めました。
佐藤理事長からも差し入れをいただきつつ、『卒業後は待っているね』と言われましたね(笑)。大学病院での研修も考えたのですが、結局当院で研修を始めることにしました。」

 堀内院長の専門は病理科である。これは将来の研修医を育てるための選択だったという。

 「病理科は医師を育てていくうえで土台となる科です。内科や外科には医師がいましたから、私は病理科を選びました。
その中で、当時はC型肝炎の研究も進んでいない頃でしたので、肝臓を中心にした病理を学んでみたいと思ったんです。
そのため、北海道勤医協中央病院で研修を終えたあと、肝炎で日本の先頭を切っていた日本大学医学部第一病理教室に研修に行きました。
日大で専門医を取得した後、当院に戻ってきたのです。ただ、当院のような規模の医療機関では病理だけというわけにはいきませんから、内科の手伝いを始めました。
内視鏡検査を行ったり、病棟や診療所でも働きました。農村調査で予防が大事だと気づかされ公衆衛生に興味を持ち、人間ドックの専門医も取得しました。」

 1984年5月に鶴岡協立病院が新築移転を行う。14診療科、204床という規模であった。
同時に、旧病院が庄内地方唯一の総合的リハビリテーション病院に改装される。一方で、大山診療所も新築移転となる。

 1993年に三川診療所が開設し、1998年に訪問看護ステーションが相次いで開設される。
1999年に協立慢性疾患クリニックと協立ケアプランセンターがオープンする。

「医療保険制度の改定があり、外来を分離する必要性があったのです。そこで、メディカルフットネスを併設したクリニックを作りました。
慢性疾患クリニックというネーミングにしたのは慢性疾患管理は健康づくりと一体なのだということからですね。」

 2001年に鶴岡協立リハビリテーション病院が新築移転する。そして、鶴岡協立病院も2003年から2004年にかけて、B病棟や療養環境、病室などのリニューアルを行う。
2008年には厚生労働省から「消費生活協同組合法制定60周年記念 消費生活センター協同組合等に対する厚生労働大臣表彰」を受ける。

 「これからも地域の方々や開業医の先生方、医療従事者のお力をお借りしながら、安心して医療にかかりたいという住民の皆さんの要求の実現と『いつまでも住み続けられる街づくり』の実現を目指します。」

2017.03.01 掲載 (C)LinkStaff

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