Hospitalinfo

バックナンバーはコチラ

177


「この子らを世の光に」
社会福祉法人びわこ学園 びわこ学園医療福祉センター野洲

プロフィール

びわこ学園医療福祉センター野洲

社会福祉法人びわこ学園 びわこ学園医療福祉センター野洲

 滋賀県野洲市は琵琶湖の南岸に位置する街で、2004年に野洲郡中主町と野洲町が合併して誕生した。JR琵琶湖線の野洲駅には新快速が停車し、京都駅まで約26分、大阪駅まで約55分というアクセスの良さからベッドタウンとして発展し、人口が増加している。また、「近江富士」として知られる三上山を神体山とする御上神社は壮大な森の中に国宝の本殿、国の重要文化財の楼門、拝殿が建造されており、野洲市を代表する観光名所となっている。
 びわこ学園医療福祉センター野洲は1966年に開設された第二びわこ学園を前身とする重症心身障害児施設である。三上山の麓に位置し、希望が丘文化公園の花緑公園に隣接する、恵まれた環境にある。対象は重症児者のみならず、重度知的障害に広汎性発達障害が合併した強度行動障害者、肢体不自由が中心の方など幅広い障害者となっている。びわこ学園医療福祉センター野洲では病院機能と地域生活の機能を兼ね備え、「ふつうの生活」を目指した取り組みを行っている。
 今回はびわこ学園医療福祉センター野洲の山﨑正策施設長にお話を伺った。


山﨑 正策

山﨑 正策 施設長 プロフィール

1949年に京都市に生まれる。1975年に京都府立医科大学を卒業後、京都府立医科大学附属病院小児科で研修を行う。1977年に健康保険組合松下病院(現 松下記念病院)に勤務を経て、1978年に滋賀医科大学文部教官に就任し、滋賀医科大学医学部附属病院小児科助手となる。1985年に滋賀医科大学大学院を修了し、彦根中央病院に勤務する。1986年に滋賀医科大学医学部附属病院小児科講師に就任する。1987年に国立療養所紫香楽病院(現 紫香楽病院)の勤務を経て、1991年に近江八幡市民病院(現 近江八幡市立総合医療センター)に小児科部長として勤務する。1993年に社会福祉法人びわこ学園第二びわこ学園(現 びわこ学園医療福祉センター野洲)に園長として着任する。2003年に社会福祉法人びわこ学園理事長に就任する。2013年にびわこ学園医療福祉センター野洲施設長を兼任する。
専門は小児神経。小児科学会、小児神経学会、日本てんかん学会、日本重症心身障害学会に所属する。

病院の沿革


 社会福祉法人びわこ学園は、滋賀県立近江学園での療育実践の結果、医療と教育の機能を持つ重症心身障害児施設が必要であるという結論により、児童福祉法に基づき、病院の機能を持った児童福祉施設として、1953年に設立された。設立にあたっては日本自転車振興会、国庫、県費等補助金、寄付金などの協力を得た。全国で2番目に開設された重症児施設だったという。

「滋賀県立近江学園の設立趣意書には福祉と教育と医療を統合させた運営構想があり、開設当初から診療所を備えていました。このような環境の中で、最重度のまた重複した障害を持つ子どもたちは、教育部とは別に医局の中に療養グループ『杉の子組』を設けました。一般のグループでは療育が困難で、最重度の知的障害、自閉症、てんかん、脳性マヒなどの重度障害を持つ、日常の健康管理が必要な子どもたちを1つの部屋に集めました。そこで個別的な取り組みが始まり、そこから最重度な子どもたちも置かれた生活環境や適切な療育により、少しずつではありますが、社会性を身につけていくという発達が可能だと言うことを学んだのです。」

 1963年4月にびわこ学園が大津市長らによって、40床で開設される。当時の法人理事長であった糸賀一雄氏が提唱した「この子らを世の光に」の理念と発達保障の思想のもとに、近江学園の杉の子組から6人の児童が11人の職員とともにびわこ学園に移り、岡崎英彦園長のもとで新たな療育活動が開始された。

「時代的な背景として、1955年頃から次第に重度重複障害児の救済施策の要望が全国的に広がり、東京を中心として入所収容施設建設の運動が始まりました。1961年に全国で初めての重症心身障害児施設である島田療育園が設立されました。1963年に作家の水上勉氏が中央公論に『拝啓総理大臣殿』の論文を掲載し、重い障害児を抱える家族の窮状を訴えたのです。そこで、重症心身障害児問題が脚光を浴び、関係者の間で重症心身障害児対策に対する関心が一段と深まりました。その年、厚生省事務次官通達『重症心身障害児療育実施要綱』が示され、国の経済的な援助が開始されました。1966年には厚生省事務次官通達で『重症心身障害児(者)の療育について』の規定が行われて民間施設の設立が始まり、また国立療養所にも重症心身障害児者の委託病棟が設置されます。そして1967年に児童福祉法の一部改正により、重症心身障害児施設が病院認可児童福祉施設として規定され、全国的に重症心身障害児施設が広がっていくこととなりました。」

 近江学園に医師として参加し、びわこ学園の初代園長になった岡崎英彦氏は以下のように述べている。

「大学卒業後、軍医として外地に赴き、戦後復員して間もなく福祉施設に腰を据えてきたが、よく人には『仕事に対する迷いはなかったか』と聞かれる。『ない』と答えると、不思議そうに『では動機は』と聞かれる。『一口で言えるような動機はないから、そういう機会にめぐりあったからだ。そうして私の性に合っていたからだ』と答えるしかない。」

 びわこ学園は西日本で最初の入所施設であったので、県内外から多くの入所希望者があり、増床していくことになる。1964年に50床の増床を行い、外来診療を開始した。そして、1966年2月1日に野洲郡野洲町(現 野洲市)に第二びわこ学園が100床で開設された。

 びわこ学園では療育記録映画を2本制作し、また大きなイベントを1つ実施してきた。1968年に完成した映画が「夜明け前の子どもたち」である。

「びわこ学園では近江学園の運営構想を受け継ぎ、種々の専門スタッフの参画を得ながら、最も重い障害児者の療育を実践しようと努めてきました。そこでは、医師、看護師、児童指導員、保育士、機能訓練士、臨床心理学者、医療ソーシャルワーカー、そのほか管理部門の人たちがそれぞれの専門的知識と経験の上に立ち、より高い次元の生活を目指し、統一した療育活動を続けようと努力していました。毎日の療育現場で入所利用者の変化を見つけ出そうと、職員一同が必死になって協議し、より良い療育方法を見つけ出そうとしてきました。そのようなときに糸賀一雄理事長が療育記録映画の製作を提案されたのです。」

 糸賀一雄理事長は次のように言ったという。

「びわこ学園では重症心身障害児の発達を保障する活動が始まったばかりです。今日まで見過ごされていた障害児たちがわずかずつのように見えますが、自らの障害に立ち向かい、変化し、発達し続けています。あるときは障害児の見せる人間的豊かさに私どもは驚かされるほどです。映画が、この療育に参加し、障害児たちの発達の過程を追跡記録するならば、私たちがこれまで見過ごしてきた新しい事実を発見するでありましょう。それは学問の新しい分野を開拓することであり、ひいては乳幼児教育の方法を確立する契機ともなり、人間が人間になっていくということはどういうことかという問いに答える道にもなりましょう。」

 現在でも、この療育記録映画「夜明け前の子どもたち」は福祉系の多くの大学において、講義に使用されている。1987年11月8日には「だきしめてBIWAKO」を実施した。

「このイベントは、第一びわこ学園の新築移転のための費用調達に応援しようという人たちの企画で始まりました。11月8日正午に全国から集まった265000人の人々が一人一人手をつなぎあい、琵琶湖の大自然を抱きしめ、自然の命や人の命の大切さと、全てを受け入れる心の優しさを確認し合った行事でした。多くの方々からの支援をいただき、1991年6月に第一びわこ学園が大津市から草津市へ移転し、増床して、最重度の障害児者の受け入れを開始しました。」

 1999年頃から第二びわこ学園の新築移転に向けた活動が本格的に開始され、これからの新しい重症心身障害児(者)施設のあり方が協議される中、滋賀県の各地域で生活している重症児者も含めた支援のあり方を検討していくことになった。2002年に滋賀県東北部地域における在宅障害児(者)に医療サービスを提供するため、びわこ学園長浜診療所が開設される。そして、2004年3月に第二びわこ学園新築移転が完了する。

「入所施設が地域に開かれた施設として機能することを目指して、以下の機能の充実を図っていくことになりました。一つは重度の障害を持ち、長期に入所、入院される方が多いことに留意し、住環境、医療環境、医療設備の充実を図ること、一つは重度の障害を持ち、地域で生活する方への外来診療、入院、短期入所などの支援サービスを充実させること、一つは『みんなの福祉』という観点から、様々な人々が関わりあえる交流の場を形成することです。」

 2004年10月には療育記録映画「わたしの季節」が完成する。

「療育記録映画『夜明けまえの子どもたち』から30年後、第二びわこ学園の新築移転をきっかけに映画『わたしの季節』が制作されました。30年間という長い年月を入所施設で育った方々の現在の生活の様子を記録することで、彼らの今の暮らしをしっかり確認することと、受け継いできた療育理念を改めて検証するためのものでありました。」

 2007年には現在の名称に変更される。

「二つの重症心身障害児施設を統合的に運営することとし、機能を明確にした名称にしました。」

 びわこ学園医療福祉センター野洲は「ふつうの生活を社会の中で」を目指して、さらに発展していくことが期待されている。


1958年9月 財団法人大木会(1958年2月設立)「重症心身障害児施設の設立」を決議
1961年7月 社会福祉法人一麦寮設立(社会福祉びわこ学園の前身、1962年6月設立)
1963年4月 第一びわこ学園、近江学園より6名の児童、10名の職員が移り、業務開始
1965年4月 社会福祉法人一麦寮の名称を社会福祉法人びわこ学園に変更
1966年2月 第二びわこ学園開園(野洲郡野洲町)
1967年6月 児童福祉法の一部改正で重症心身障害児施設は病院認可の児童福祉施設となる
1968年3月 映画『夜明け前の子どもたち』完成
1968年9月 糸賀一雄氏死去
1973年7月 職員に腰痛症多発、全国的の重症児施設でも同じことが問題になった。
1978年1月 第二びわこ学園内に、県立八幡養護学校野洲校舎完成
1984年4月 滋賀県立身体障害者更生援護施設「むれやま笹」受託(~94年3月)
1987年6月 岡崎英彦理事長(初代園長)死去
1987年11月 びわこ学園を支援し、命と琵琶湖を大事にしようという願いのもとに琵琶湖一周を約26万4千人の人々の手でつないだ。「抱きしめてBIWAKO」。
1990年4月 滋賀県重症児通園モデル事業を開始
1991年6月 第一びわこ学園、草津市に新築移転
2000年4月 大津市から知的障害児者地域生活支援センターを受託
2002年5月 長浜診療所の運営開始
2004年3月 第二びわこ学園、野洲市北桜に移転。第二びわこ身障デイサービス開始
2004年10月 映画『わたしの季節』完成
2005年7月 第二びわこ学園、訪問看護ステーション事業開始(野洲市小堤)
2006年4月 第一びわこ学園に地域支援ステーション「みなも」開所
2007年4月 二つの重症児施設を「びわこ学園医療福祉センター」とし統合的に運営することとし、第一びわこ学園を「びわこ学園医療福祉センター草津」、第二びわこ学園を「びわこ学園医療福祉センター野洲」と名前を変更した。また、びわこ障害者支援センターをびわこ学園障害者支援センターと改称した。
2007年10月 ケアホーム大平(大津市)を開設。
2011年9月 ケアホームともる(大津市)を開設(ケアホーム大平を廃止)
2012年4月 障害者制度改正による事業等の名称変更(重症心障害児施設の名称はなくなり、医療型障害児入所施設・療養介護事業となる。)
2012年8月 生活介護事業所「たいよう」(守山市)開設
2013年10月 びわこ学園創立50周年記念式典
2014年4月 生活介護事業所「えがお」開設(同「たいこ」廃止)

2015.09.01 掲載 (C)LinkStaff

バックナンバーはコチラ