HOSPITAL INFO

バックナンバーはコチラ

132


2012年春に新築移転を行う
新潟勤労者医療協会 下越病院

プロフィール

新潟勤労者医療協会 下越病院

新潟勤労者医療協会 下越病院

 下越病院は新潟県新津市に1976年に開設された病院である。新津市は2005年に新潟市に吸収、合併され、現在は秋葉区の一部となっている。新津は古くから鉄道の街として栄えており、新津駅はJR東日本の信越本線、磐越西線、羽越本線の3路線が乗り入れるターミナル駅である。特に、新潟と会津若松を結ぶ磐越西線は「森と水とロマンの鉄道」と呼ばれ、1999年に復活を遂げたSLが「SLばんえつ物語」号として定期運行し、首都圏をはじめ、全国から観光客を集めている。
 下越病院は地域住民を出資者として発足した歴史を持ち、新潟水俣病の治療や調査など、多くの社会問題と向き合ってきた。最近では災害指定病院に指定されたほか、DMATを保有し、東日本大震災にも出動するなど、様々な活動を行っている。現在は一般病床に加え、療養病床、回復期リハビリテーション病床も開設し、16診療科290床の規模で運営しているが、2012年春には新築移転を行い、医療やサービスのさらなる向上を目指している。
 今回は五十嵐修院長にお話を伺った。


五十嵐修 院長

五十嵐修 院長 プロフィール

1953年に新潟県に生まれる。1979年に新潟大学を卒業後、下越病院に入職する。2006年に下越病院院長に就任する。専門は外科。



病院の沿革

 下越病院の歴史を振り返るにあたって、無産者診療所運動の存在を抜きにはできない。無産者診療所運動とは、医療を無産者と表現されていた労働者や農民のものにすることを目指して展開された医療運動である。1930年1月、東京の大崎に初めて無産者診療所が作られ、その流れが新潟にも起こった。
 当時の新潟の農民の生活は貧しく、新潟勤労者医療協会の『30年の歩み』によれば、「医療はほとんど開業医の自由診療で、重い病気、長い病気では医療費を払うことができないという状況」だったという。新潟では、木崎争議という小作争議で結成された農民組合によって、1931年10月から無産者医療運動が開始されたと言われている。
 1933年、小作農民が葛塚医療同盟が結成されて診療所を開設し、同時に五泉地区にも無産者診療所を開設した。1941年に行政による弾圧的な閉鎖が行われるまで、農民が診療所を守り、運動を続けていた。

 「10坪程度の民家の作業所が空いていたので、それを借りて、畳、机、椅子を持ち込んで診療所を立ち上げたのが成り立ちだと聞いています。住民の皆さんがその場所に色々な援助をしたおかげで診療所の体をなしていったんですね。したがって、誰のために始まった医療であるのかは言うまでもありませんし、現在も災害があれば駆けつけるのは当然のことなのです。」

 そして、戦後の1952年に勤労者医療協会が設立され、1953年に新津診療所が開設される。これが現在の下越病院の前身である。

 「その当時を知り、大変な貢献をされた酒井澄先生がご存命の頃にお聞きした話ですが、寒い雪の日に、馬そりで往診に出かけたところ、雪のために思うように進まず、すさまじい寒さの中、往診を待つ農民の家に夜を徹して向かったそうです。そういうエピソードに心打たれた記憶があり、医療とは誰のためにあるのかということを考えさせられたことなどが私の根っこになっている気がしますね。医師になるなら診療所でと思っていたこともあり、下越病院での研修の中でこういったエピソードを意識的に聞いていました。」

 1964年に新潟地震が起こり、新津診療所では救援活動に携わる。さらに1965年からは新潟水俣病の患者さんの調査や水害救援活動にも従事する。
 新潟における水俣病の発生は、1964年8月、阿賀野川の下流部にある下山地区の農民からである。1965年1月以降、第二、第三の患者さんが現れ、新潟県当局や新潟大学医学部では早い時期に熊本水俣病と同様の有機水銀中毒であることを認識していたようだ。同じ時期に、新潟地震の被災地への健康診断で阿賀野川流域を担当していた新潟勤労者医療協会の沼垂診療所のスタッフは神経障害患者さんの発生を察知し、斉藤恒医師は熊本水俣病と類似していることに気付いた。
 そこで被害の実態を明らかにしたうえで、多くの団体と共同して、公害反対の運動を起こしていくことになった。これが「民水対」の発足に繋がり、1965年10月には新潟県と交渉し、医療費の補助など、患者さん救済のための「特別要綱」を制定した。

 「私どもの名誉院長である富樫昭次医師や沼垂診療所の所長である関川智子医師など、多くの職員が裁判闘争に協力し、被災者救済にあたってきました。社会問題などでは被害者の立場で多数の診療に当たり、場合によっては訴訟においても被害者に協力し、住民とともに戦ってきました。結果は全て勝訴です。最近でも「no more 水俣病」という裁判で、171名の実質勝訴となり、2011年3月に和解しています。最近でも、地域の中の健診で、40数名の水俣病を疑う患者さんを診ています。」

 1976年に下越病院が80床で開院し、1979年には104床に増床した。また、地域社員も2000人を超す。医学部卒業直後の医師を研修医として受け入れを開始したのもこの頃のことである。

 1983年に271床、1989年に313床に増床し、外科系の外来やリハビリスペースの拡大を行う。

 1990年代に入ると、高齢化社会に対応するため、訪問看護、在宅支援センター、老人保健施設の設置が相次ぐ。
 2001年にはかえつクリニックを開設し、2003年には42床の療養病床を設置した。この頃、地域社員は12000人を突破している。
 2004年にはメディカルフィットネス「ウォーム」を開設する。一方で、災害拠点病院への指定に続き、2005年にはDMATの指定も受ける。
 2008年には回復期リハビリテーション病棟を開設するなど、時代の要請に応えて拡張を続けてきたが、2012年にはいよいよ新病院が着工となる。

 「現在の病院は、80床で開院してから313床になるまで組合員の方々の出資をいただく形で何度かの増築を重ねてきました。決して機能的ではありませんが、増築ごとに皆の思いがあって、現在の規模まで大きくなったのです。新病院に移転するにあたって、患者さんの療養環境を向上させるだけでなく、職員の気持ちも、医療についても再度ブラッシュアップしたいと思っています。」

リニューアル

 

2011.11.1.掲載 (C)LinkStaff

バックナンバーはコチラ

おすすめ求人

  • 矯正医官
  • A CLINIC GINZA