私には、佐倉というと東邦大学附属病院のあるところ、という認識がある。しかし、そこに国立歴史民俗博物館があることは知らなかった。縄文時代に関する資料を読んでいると、必ずこの博物館の名前が出て来る。所属する研究員の方々の見識は高く、地道な研究の成果が、今の縄文文化の再認識につながっている。ここをいつかは訪れてみたいと考えていたが、東京の西の外れ世田谷から、東京を横切って千葉県佐倉まで行くのは大変そうで躊躇していた。
そんなある日、夏休みや連休が終わって人が余り出なくなった日に、バイク日和の天気予報を確認していよいよ国立歴史民俗博物館に行こうと決めた。朝早く出て開館の少し前に着いたから、駐車場には数台の車が止まっているだけで、バイクは私だけだった。帰りにはほぼ満車状態だったから、タイミング良く入館出来て良かった。
ここには全国の貴重な資料が網羅されていて、今まで行った考古館、歴史館では見られなかった貴重な展示物が沢山あった。しかもそれぞれのクオリティが半端なく高い物だったのには驚いた。以前下宅部遺跡を訪れた時に「現在国立歴史民俗博物館に貸し出し中」と張り紙がしてあって、実物はなくcopy写真が貼られていた編組資料があって、さすがは国立博物館、と感心したことがあった。
先史時代
1階に受付があり、入館料を払う。一般の入館料は600円だが、JAFの会員割引があったので少し安くなった。展示室は6つあって、先史・古代、中世、近世、民族、近代、現代に分かれている。私の目的は縄文時代の資料なので、第1展示室(旧石器時代から奈良時代まで)を詳しく見て回った。
国立歴史民俗博物館の総敷地面積は129,496㎡、延床面積35,548㎡、建築面積17,124㎡と広大だ。東京ドームの敷地面積が46,755㎡だから、約2.8倍だ。1階の展示室で旧石器時代から縄文、弥生と見ていくだけで、たっぷり1時間半かかった。写真も動画も撮影可なので、貴重な資料を随分と手に入れることが出来た。
この写真は旧石器時代の資料だが、左の磨製石斧は、石とはいいながら、磨き上げたsharpな先端部はいかにも切れ味が良さそうだ。これを柄に装着して木を切り、獣を仕留めていたのかと思うと、縄文の男のアドレナリンがこちらにも伝わってくる。右の2枚の写真は、狩り獲った動物の皮をなめし、衣服を縫う女性の親子だが、旧石器時代の展示物だと知らない人に、現代のアラスカの情景だといってもおかしくないほど今の我々と変わらない。もちろん国立歴史民族博物館の研究者たち、造形作家たちが苦労しながら検証して作り上げた想像上のダミーだが、実に真を写していると感じられる、優れた復元物だと感心した。
今回、国立歴史民俗博物館の展示で印象に残ったものの一つは、旧石器時代の日本列島で暮らしていた人々は、連綿と培った生活の知恵、経験や技術を積み重ねて、土器を使う新しい時代、縄文時代へとゆっくりと入っていったのだということだった。
縄文時代にハイライトが当たっているために忘れがちな旧石器時代だが、彼らは鹿の角で作った縫い針を器用に扱って、衣服、靴や手袋を作り、黒曜石も利用していた。槍や弓矢での狩猟はもちろんのこと、落とし穴を作って効率的に獲物を獲る工夫もしていた。海外ではフランスのマルヌ県で約1万1千年前のものが見つかっているが、静岡県三島市川原ケ谷の落とし穴が3万年前と最古のものと見られている。狩り取られた獣の解体をする石刃(せきじん)は、石器ではあっても鉄の刃に劣らない鋭さがあった。
鉄器を持たなかったマヤ文明
ノースカロライナ州立大学終身教授で物理学者の志村史夫氏によれば、マヤ文明は16世紀にスペインに侵略・破壊されるまでの2500年間、鉄器を持たなかったという。世界的にも優れた文化を持っていたマヤ文明であるから、鉄器を知らなかったわけではない。考古学的な資料によれば、隕鉄や青銅を利用した形跡はあるようだが、石器で十分事足りていたから、あえて鉄器を使う必要がなかったのだという。青山和夫茨城大学教授がいうように「最も洗練された石器の都市文明」であり、「究極の石器文明」といわれる所以である。
縄文時代は1万年の長きに渡って平和が続いていた社会だが、マヤ文明も同じように長く平和で豊かな文明を築いていた、その要因は鉄器を持たなかったからだと志村氏は考える。氏の考えはこうだ。
マヤ文明は、機械に頼らない「手作りの文明」であった。
独自の文明史観をもち、数々の歴史小説を遺した司馬遼太郎は“鉄の力"についてこう述べている。
「木器や石器が道具の場合、人間の欲望は制限され、無欲でおだやかたらざるをえないのである。木の棒で地面に穴をあけてヤムイモの苗を植えたり、木製のヘラで土を掻いて稲の世話をしているぶんには、自分の小人数の家族が食べてゆけることを考えるのが精一杯で、他人の地面まで奪ったり、荒蕪の地を拓こうなどという気はおこらないし、要するに木器にはそういう願望を叶える力はない。鉄器の豊富さが、欲望と好奇心という、現象的にはいかにもだけだけしい心を育てるのではないか」「街道をゆく7」朝日文庫)
マヤ人は鉄器をもたない人々であった。鉄器をもつ必要もなく、石器だけで、手作業の技術と人力エネルギーのみで不自由なく生活した人々であった。マヤ文明の世界に、大きな統一国家が生まれなかったのは、彼らが鉄器をもたなかったためであるのは間違いないだろう。鉄器をもたなかった彼らは「自分の小人数の家族が食べてゆけることを考えるのが精一杯で、他人の地面まで奪ったり、荒蕪の地を拓こうなどという気」など起こさなかったのである。
16世紀に、このようなマヤ人のマヤ文明を破壊したのは“鉄の種族の人間”の権化のようなスペイン人であった。
ヒトは手を使えるようになってヒトになった。その手に持つものが木や石から鉄に変わって、ヒトはどれだけ豊かなものを失ったか、後戻りできないこの世界に生きていて、縄文の人々を知ることにより、地球にとって人間が寄生している意味は何なのかを考えさせられる。
植物利用と調理
旧石器人(縄文人にも受け継がれた)がどんな食べ物をどのように調理して食べていたかは、有機物が遺跡に残されていないために確定するのは難しい。そのため当時の植生や一部の遺跡、新潟県荒谷遺跡などから得られた資料から想像する他はないが、かなり豊かな植物を利用していたことが考えられている。
当時の調理法として、肉や魚、球根類などを葉で包み、熱した礫に並べて葉と土で覆い、数十分蒸し焼きにする「石蒸し調理」が行われていたことが考証されている。実際に国立歴史民俗博物館の館員たちがその調理を再現して食べるビデオが公開されていた。シカ肉や山菜、ユリ根などの食材を葉で包み、カラムシの紐でしばり、皿状の穴に熱した礫を入れ、葉と包んだ食材を置いて土をかぶせて約30分蒸して出来た料理は大変美味しい物だったという。写真左が旧石器時代の復元模型。右2枚が館員による調理再現実証実験。
石偶・土偶
14,500年前に、小さな平たい石に細い線をいく条と刻み込んだ石偶を刻んだ人々がいた。その石が発掘されたのは、愛媛県上黒岩遺跡だ。
よく見ないとわからない線は、女性の長い髪の毛と乳房、腰蓑のようにも見えて、これが何らかの祈りを込めたお守りのようなものではなかったか、と考古学者は考えた。女性が子供を産むことが神秘的な事柄であり、まさに命を授かることが神業であることから、女性は神としてあるいはその使いとして命の再生のシンボルでもあったのだ。国立歴史民俗博物館には日本中から貴重な石偶・土偶が集められていて、今まで読んだ本や資料に出てきたものが目の前にあることに大変感激した。
石偶・土偶を医師の目からよく見ると、乳房の大きさの変化に気付く。かつての日本人女性は欧米女性に比べて乳腺の発達が良くないので、いわゆる貧乳だった。私は昭和世代なので、若い頃は大正・昭和の女性のヌード写真を見る機会があったが、温泉街で撮られたそれはふっくらとした低いお椀型で、和服の襟から胸元が見えても乳房の隆起を感じさせることが少ない女性がほとんどだった。これは食事と大いに関係がある。日本人は菜食で、第二次世界大戦後は栄養不足のために米国が脱脂粉乳を配ったくらいだから、日本女性の乳腺が発達する余地はなかった。欧米は畜産業が盛んで、食事は肉食、乳製品、特に牛乳を沢山飲むので、乳腺の発達が良い。以前外来でウクライナの20代女性を診察したことがあったが、メロンが二つ胸に乗っている状態で、聴診器をどこにおいて良いか迷った程だった。縄文時代の女性の乳房の発達はもちろん良いはずがない。しかし、妊娠して授乳する時期には乳腺は大きく発達し、乳児を育てるのに十分な乳房に発達したはずだ。私の妹も、胸にレーズンが乗っているような貧乳だったが、妊娠後期には小玉スイカを半分に割ったくらいの乳房になって驚いたといっていたから、授乳期の女性の身体変化は著しいものだったはずだ。
縄文時代の性と生
国立歴史民俗博物館の展示をそうした観点から見てみると、以下の写真左から、第二次性徴を終えた若い女性(A)、妊娠後期で授乳可能な若い女性(B)、中年以降の経産婦女性(C)を象っていると考えられる。縄文人の表現力からすれば形を写す事は容易であるはずにも関わらず、あえてデフォルメして女性性(生、命)を崇めて神格化する意図も見える。最後の写真右下端の石偶(D)には女性器が描かれているのだが、尿道口まで解剖学的に正しい位置に作られていて、それが3000年後にNetterが描くイラストとほぼ同一のqualityを持っていることに驚嘆を覚えた。
縄文時代の土器作りは主に女性の仕事だったといわれる。子供たちは母親たちの手作業を見ながら、見様見真似で土いじりをしていたようだ。土器や土偶の中には、子供が作ったと思われる小ぶりで雑な作りのものが混じっている。土偶も女性が作っていたのなら、お互いの身体的特徴を観察し土偶に作り込む事は容易だったのかもしれない。以下の写真に示した出産の模様を写した土器の取手のディテイルは、出産に頻回に立ち会った者にしか描けないと思う。いつの頃からか分からないが、出産にはお産を経験した女性や産婆が立ち会うことになっているのは世界共通の決まり事だった。であれば、この土器の作者は女性だということになる。
左の土器上の土器は国立歴史民俗博物館の展示物。母体を象った土器から赤子が頭を出しているもの。産道を通る時には目が膣壁に引っ張られて細くなっている。母親の外陰部は、小陰唇、肛門に至るまで丁寧に描かれているが、生々しさを消して、器としての絶妙なバランスを整え、全体をアーティスティックなフォルムに落とし込んである。
以下のポスターは国立科学博物館で3月15日から6月15日まで開催されていた特別展「古代DNA-日本人のきた道-」で展示されていたものだ。縄文人の心の世界には女性と男性と命の循環という考えが多くを占めていて、それを象(かたち)に表さずにいられなかったのだろう。それが強いモチベーションとなって石偶・土偶、ある種の土器が作られたのだ。
現代社会では倫理という、統括者・支配者が都合の良いルールにより、不健康に隠されてしまっている部分、それを縄文人は、尊い命を崇め、命を生む男女の交合を賛美し、その局部にまで光を当てて賛美した。そうした意味では、縄文文明は平等に開かれた健康的な社会であったともいえよう。その平和は1万年もの間続いたのだから、その価値は推して知るべしである。
(次号に続く)