漆の利用方法
国立歴史民俗博物館教授の日高薫氏は、扱いやすいとはいえないウルシを縄文の人たち、そして日本人が好んで使ったのは、その素晴らしい有用性の故だと話す。
「例えば、容器に漆を塗ると水漏れを防ぎ、耐久性も高まります。また、漆を塗ると、美しくもなります。接着剤として、壊れた土器の接合にも使われていました。このように、漆は実用性、装飾性に優れているので、縄文時代以降も使われ続けたのです」
土器の補修にウルシは頻繁に使われており、その強度はかなりのものだったようだ。壊れた土器の披裂部を見ると、補修部分は割れていないがその他の場所で割れているものがある。補修には、割れた側面に穴をあけて割れ目を紐で縛って合わせ、ウルシを塗って補強しているもの、漆と土を混ぜたものを充填したものがある。昔から日本人は「もったいない」の心を持っていたのだろう。愛着のある一品にかける愛情の深さを感じる。
下宅部遺跡から出土した多くの漆細工は、今でもその美しさを保っている。東村山ふるさと歴史館に陳列してある弓は、その形といい艶といい、とても数千年前のものとは思えない美しいものだった。
獣を射取って捌く時に、縄文の人々は祈りを捧げる。それと共にお供えとして弓を折って弔ったと考えられている。ムラに居住している人々の人数はそれほど多くはないから、沢山の獣を狩る必要はない。縄文人は足るを知る、賢い人達なのだ。
国立歴史民俗博物館職員であった永嶋正春氏はいう。
「私はしばらく奈良の正倉院にいました。正倉院には竹ザルや竹カゴがたくさんあるのですが、それと中屋サワ遺跡の籃胎漆器のザルカゴとどちらが上手かといわれるとちょっと困ります。奈良時代を代表する、東大寺大仏殿に使ったような竹カゴ、竹ザル的なものと遜色がないものを縄文時代には作っています。
(資料3「藍胎漆器とは?」より)
このことは、私は縄文時代の漆の文化のすべてについて当てはまると思っています。
5000年前であろうと一万年前であろうと、その技術は今と変わらないあるいは今以上であるのは、当たり前なのです。工業製品ではありませんから、漆という性格を熟知し、手工芸的な範囲で実現できることであれば、金属器文化がないという不利はあるかもしれませんが、その他はすべて、今以上に良いものができていると考えていただいてかまいません。
縄文人から今の人をみたら、一万年を直線的に発展してきているということは決してないのです。下手をすると下降しているかもしれない。それはこのような手を使った文化であればある意味当然のことなのですが、やはりどうしても今の人たちのほうが偉いだろうという先入観があります。昔から今に向かって発展しているとすると、『縄文時代の人たちはこういう生活をしていた』『こういった技術の程度しかなかった』という、漠然とした先入観があるのではないでしょうか。その結果、縄文時代の漆文化も含めた解明がなされてこなかったのかもしれません。今、改めて見直されているのが縄文文化なのだと思います。
下宅部遺跡はそれをきちんと見直すためのいろいろな道具類が揃っていて、現在も調査・研究が行われています。非常に膨大な情報をもっている遺跡ということを承知していただければと思います。また、これらの漆文化を通じて、縄文時代のイメージをぜひ変えていただきたいと思います。」
今に受け継がれるもの
現代社会は、ものが溢れ、食べ切れないほどの動植物を飽食しているが、その結果成人病が未成年から始まり、その治療に高価な薬物が湯水の如く使われている。自分で食べ物を作ることも捕ることも出来なくなってしまった現代人にとって、せめて飽食を止め、少なく食べるために、外国産の輸入食品を大量購買・大量消費する悪い習慣を断つことぐらいは心がけるべきだろう。そして地産地消で地域の生産者を大事にする、新鮮な食べ物を食べて健康を維持する”Planetary health diet”(世界16カ国の研究者37名で構成されたグループが、各分野の視点から、食事や食料システムを人や環境にとってより良いものにするべく、全世界へ向けて提示したシステム)は、すでに世界のcommon senseになりつつある。世界中から日本の食を求めて来日する外国人は、日本ほど食材が豊かで新鮮で美味しいものが手に入る国はない、と称賛している。それは、縄文時代から受け継がれる「縄文カレンダー」、旬の食べ物を過不足なく頂く食文化があるからだといって良いだろう。
旧石器時代から縄文時代にかけて、日本列島人口は地球で最も多かったという。地球規模で日本列島を目指した人々は、そこにユートビアを見出したのだ。それが1万5千年もの間続いた。江戸時代の首都江戸も、ロンドン86万人、パリ54万人、を抑えて世界で最も人口の多い100万人都市だった。いうまでもなく、文化的にも優れており、玉川上水を使った飲料水の確保、生活用水は下水道で江戸湾に流し、人糞尿は肥しとして農業を支えたそれは、今でいえば立派なエコシステムといえよう。縄文の時代から、日本人は自然と共存し、自然をrespectしてそこに住まわせてもらっているという意識があった。欧米のように「自然を征服する」という傲慢さはなかった。人糞や尿を二階の窓から投げ捨てて、セーヌ川やテームズ川を汚すだけ汚していたヨーロッパとは異なる文化を持つ日本。最近来日する外国人が異口同音に「日本のトイレはきれいだ」「どこにでも無料で入れるトイレがある、しかも公共のトイレもきれいで、便座が暖かくて気持ち良い」と絶賛する。フランス女性がよく話すのは「フランスでは公共トイレは有料なのに汚くて、便座になんか座れない」「日本人は次に使う人のためにきれいに使う優しさがある。フランス人は、自分が良ければいい、他人の事なんか考えていない。日本人の自分以外の人に対する優しさに感激する」という、清潔に関する文化の違いだ(もちろん一般論だが、一理はある)。
ただ、日本が急いで取り入れた「文明開化」は、ある意味日本文化の衰退を促した感は否めない。今も金の亡者の跋扈や止まるところを知らない。「再開発」という名の自然破壊、地域文化の摩滅・消退が続く日本。医療でいえば「地域のかかりつけ医」を消滅に導き、メディカルセンター方式にしようとする浅はかな政治家や官僚による医療政策設計も同様だ。日本に息づいた医療システムは、実は世界が羨ましいと感じる「Eco-system of medical care」なのだ。それを破壊しようとする馬鹿な考えは捨てて、このsystemをもっとbrash upするためにはどうすれば良いかを考えるべきだと思う。
黒曜石は鉄、プラスチックに匹敵する革命的な素材
先日Amazonで神津島産の黒曜石(obsidian)を購入した。実際の大きさは掌に乗るくらいの小さなものだが、その艶といい透明感といい、石好きにはたまらない神秘的な石だ。旧石器人や縄文人がその魅力に取り憑かれたのがよく分かる。私にはダイアモンドよりよっぽどこちらの方が好みだ。
縄文時代には、この石を求めて日本列島から神津島まで丸木舟を走らせたのだが、今では宅配業者がネット注文した翌日に自宅まで届けてくれる。しかも配送料抜きで749円は驚きの安さだ。もちろん、この石を削って細石刃を作り、槍先や弓矢の石鏃にしたとしても、獣のいる森は遠くにあって、現代人には狩の技術も無いから、豚に真珠、猫に小判だ。掌の上の石を眺めて遠い縄文の人々のことを思い描くしか出来ないが、この石を利用することを思いついた人々にとって、それは鉄、プラスチックに匹敵する革命的な出来事であったといって良いだろう。
黒曜石は、化学組成上流紋岩(SiO2が70%以上のもの)で、外見は黒く(茶色、また半透明の場合もある)ガラスとよく似た性質を持つ。流紋岩質マグマが水中などの特殊な条件下で噴出し、急激に冷やされることで生じると考えられている。結晶化せずほぼガラス質なので脆いという欠点はあるが、割ると非常に鋭い破断面を示すことから、先史時代より世界各地でナイフや鏃、槍の穂先などの打製石器として古くから使用された。現代でも、その切れ味の良さから、海外では眼球/心臓/神経等の手術でメスや剃刀などの実用品として使われることがあるという。ヨーロッパ人の来訪まで鉄を持たずに文明を発展させた南アメリカは、15世紀頃まで黒曜石を使用していた。
日本における黒曜石の産出地域は、明治大学黒曜石研究所によれば以下の図のように、九州、信越、伊豆、東北、北海道に多くあるが、縄文時代には神津島産と信州産の黒曜石が二大産地として日本各地に運搬され使用されていた。
先述したように神津島の黒曜石は漆黒の輝きを持つ石だが、信州産のものは透明度が高く、宝石を思わせる美しい石だ。この二大産地の石がブランド品として珍重され、日本各地の縄文人がこぞって渇望し、北は青森、北海道、南は九州から足を運び、運搬、流通のルートを切り開いて、手に入れるための想像を超えるエネルギーを使っていた。その縄文人の美意識、最高のもの、究極のものを目指すというpassionには感動すら覚える。技術を磨き、世界中の人が感心する物づくりをする今の日本人のメンタリティに通ずるところがありそうだ。
(北海道木古内町の遺跡から出土した長野県の黒曜石で作られた矢尻=北海道埋蔵文化財センター提供・共同)
細石刃
黒曜石を鹿の角や他の石器で、叩いたり押し剥がしたりして出来る、幅1センチ以下で、長さがその倍の長方形に近い石器をMicrobladeと呼ぶ。細石刃はその訳語だ。先述したように、黒曜石を削って作る細石刃は縄文人の様々な道具に利用された。それまで塊のまま使っていた石にはない、鋭い切れ味、獣の厚い皮膚や骨までも突き抜くことのできる性能は、石器時代における革命的な変化であった。
明治大学黒曜石研究センター客員研究員であり、八ヶ岳旧石器研究グループ代表の、堤隆歴史学博士の研究によると、3万年から2万年前の旧石器時代から使われていた尖頭器やナイフ型石器と比べると、効率良く性能の良い石器が製作可能となったそれは、innovationといえるほどの革新的技術であったようだ。
図下段に示されているように、黒曜石100gからナイフ型石器と尖頭器は17個であるのに対して、上段に示された細石刃は396個が取れる。細石刃は、通常単独では用いられず、植刃器(図の右端に示したもの)といわれるシャフトのソケットに埋め込む形で利用されたから、1本のシャフトに10から30個が用いられれば、ナイフ型石器や尖頭器のほぼ倍の生産能力となる。しかも切れ味が良いのだから、細石刃の利用は多岐にわたったと考えられている。今でいえばカッターナイフや、替刃のように利用されていたとすれば、縄文人たちの作業場は現代とそう変わらない。
ただし、黒曜石から細石刃を作り出す技術はかなりの熟練を要する。細石刃は細石刃核と呼ばれるある程度形を整えた粗大な原石から剥ぎ取るのだが、これが素人には難しい。1万年以上前の人々のテクニックがいかに熟練していたか思い知らされる、と堤博士は驚嘆している。もちろんテクニックは一つではない。いろいろな方法が試されたと考えられるが、基本的には鹿の角などの弾力性のある押圧剥離具を使っていたようだ。研究結果から知られているのは、矢出川技法、幌加技法、湧別技法だ。図にその方法を示すが、詳しくは堤博士の著書を参照していただくのが良いだろう。
(1月号に続く)