ドクタープロフィール
ドクター神津
神津院長は昭和52年に日本大学医学部を卒業後、同大学第一内科に入局され、その後、神経学教室が新設されると同時に同教室へ移られました。医局長、病棟医長、教育医長を長年勤められ、昭和63年、アメリカのハーネマン大学およびルイジアナ州立大学へ留学。帰国後、特定医療法人佐々木病院(内科部長)を経て、平成5年に神津内科クリニックを開業された。神津院長の活動は多岐にわたり、その動向は常に注目されている。
2002年9月号 -すぐとなりの国へ(Ⅱ)- backnumberへ
 ソウルには、まだワールドカップの余韻が残っていて、市役所の前にある大きなサッカーボールが夢の続きを見せてくれていた。土産物屋にも便乗グッズがまだたくさんあって、売れ残りという感じはしない。テレビを見ればサッカーボールが元気よく跳ね回っていて、この国の雰囲気は微妙に変化したのだと感じられた。振り返って、東京オリンピックが日本経済のある種の転換点であったとすると、同じ意味合いがワールドカップにはあったのだろうか。町に繰り出してみると、確かにそのエネルギーが感じられた。

ソウル市内には、デパートというものが2軒しかない(もし違っていたら訂正のメールを下さい)とのことで、我々が宿泊した「ロッテホテル新館」から地下道を渡って行ける「ロッテデパート」はとても混雑していた。おりしも昼時だったので「デパ地下」へ行ってみた。

台湾でもそうだったが、デパートの地下には庶民の胃袋に直結した美味しくて安い食堂がずらりと軒を連ねている。アメリカでは、大体ショッピングモールの二階に「Food shop」があって、ケンタッキーフライドチキンやハンバーガー、スパゲッティーやピザ、フローズンヨーグルトなど、昼食に相応しい料理をたくさん並べて、色とりどりの店構えで客を迎えるのが普通の光景だ。料金を払った後は、多くの椅子とテーブルがならべてある広大なフロアに、料理を載せたトレイを両手に持って、自分の好きな場所を自由に選んで座れる。しかし、韓国ではそんな悠長なことはしていられない。

まずたくさんある店を品定めする。面白いことに、日本そばや寿司のコーナーがあって、意外と人気だった。ちょっと嬉しい。とりあえず、私が野菜ビビンバで、家内は肉ビビンバにする。チケットを入り口で買って、夫々の店の上に掲げられた電光掲示板で自分の番号が来るのを待つ。ピンポン、今度は私の番。美味しそうなどんぶりとスープ、それにキムチの盛り合わせが乗ったトレイをもらうと、付いてくる箸とスプーンは銀製のものだった。ここはいかにも韓国っぽい。家内と二人でそのトレイを両手に持って、座る所を捜すのだが、すべて満員だ。何人か椅子を立つと、さっと待っていた誰かが座ってしまう。その椅子の取り方が素晴らしくうまい。日本人ではとても太刀打ち出来ない。サッカーでボールを奪うのがうまいのはこうした日頃の鍛錬の賜物かもしれない。結局、一つ確保した所で、韓国の人が子供をどこかに追いやって、もう一つ家内の分を譲ってくれた。昔の日本も、こんな風だったなと思い出す。キムチの辛さに汗を拭き拭き、本場のビビンバを食べる。スープは辛すぎて飲めない。素晴らしい喧騒と、エネルギッシュなパワーに息を呑む。相席をした目の前の韓国女性の肌がきれいだ。となりの国がとても興味深い 。

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