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地域の主治医・生涯の主治医として

プロフィール

社会医療法人社団健生会 立川相互病院

東京都立川市は人口400万人を有する東京三多摩地区の中心都市であり、17万人の市民が暮らしている。立川駅にはJR中央線、南武線、青梅線が乗り入れ、多摩地区では最大の乗降者数となっている。また立川駅の近くには多摩都市モノレールの立川北駅、立川南駅があり、多摩地区を南北に結んでいる。

立川相互病院は立川駅から徒歩8分、立川北駅から徒歩7分の場所に2016年に新築移転を行った。現在は32診療科、287床を持つ急性期病院として、年間4000台を超える救急車の搬送を受けている。

今回は立川相互病院の髙橋雅哉院長にお話を伺った。

病院外観
髙橋 雅哉 院長 プロフィール

1963年に大分県で生まれ、大阪府で育つ。1987年に東京大学を卒業後、立川相互病院に入職する。外部研修、外科科長を経て、2018年に立川相互病院院長に就任する。

髙橋雅哉院長

沿革

立川相互病院
1951年
立川診療所を開設する。
1959年
伊勢湾台風の救援活動に医療班を派遣する。
1960年
立川相互病院を開設する。(24床)
1964年
立川第二相互病院を開設する。(33床、さらに51床に)
1968年
立川相互病院が移転し、立川第一相互病院を開設する。(50床)
1982年
立川相互病院を新築。(222床)
1990年
立川相互病院増床。(350床)
1995年
厚生省臨床研修指定病院に指定される。
2016年
立川駅北口に、立川相互病院新築移転。(287床)

「この立川地域には戦後の引き揚げの方や米軍基地で働く労働者、生活が厳しい方がかなり多かったのです。しかし、国民皆保険制度などの医療制度ができる以前は医療機関にかかることが難しかったんですね。そうした医療の光が当たらない人にも医療の光を当て、誰もが医療にかかることができるように、地域の方々が資金を持ち寄って作ったのが始まりだと聞いています。」

その後、立川診療所は産婦人科などの診療科を開設しながら規模を拡張していき、1960年に立川相互病院へと発展した。場所は立川駅の南側であり、2016年に現在の場所に移転するまで、その地で地域医療にあたっていた。1982年には新しい病院が建設され、222床となった。そして、それをさらに増床しようという運動が起こったのが1988年である。「立川相互病院の増床を支持する会」が結成され、12万6千筆もの署名を東京都に提出した。髙橋院長はこれが立川相互病院の歴史の中で大きな出来事になったと振り返る。

「当時の東京都ではベッドを増やさないという医療計画を立てており、増床が許可されなかったのです。それに対して、地域で署名活動が始まり、瞬く間に12万を超える署名を集めたことで、増床が許可されたという経緯です。その頃の立川市の人口が15万人ですから、立川市の近隣に住む方々も署名してくださったのだそうです。開院当時から差額ベッド代を取らないのが我々のモットーなので、そういった姿勢が地域の方々に支持され、私たちの手の届かないところでも署名を集めてくれる連合体や老人会、自治会があったということです。」

髙橋院長が大学を卒業後に立川相互病院に入職したのもこの頃のことだ。

「出身大学の医局に残るのが当然の時代でしたが、大学のサークルや勉強会で社会問題に少しですが、関わってきたこともあり、先輩から勧誘されて、当院に入職しました。いきなりこのような小さな病院に来て大丈夫かなという不安はありましたね。しかし、その署名活動を通じて、大いに励まされました。これだけ地域の方々に支持されている病院なのだということが分かり、大丈夫だという確信ができて、結局ずっと当院にいるということになりました(笑)。」

2016年には現在地に新築移転を行った。

「その署名活動などの結果、350床ほどの病院になったのですが、手狭になったり、老朽化したということで、新築しようと場所を探していました。かなり長い間、探したのですが、ようやく見つかったのです。ここは戦前、陸軍の立川飛行場があったところで、戦後は米軍の立川基地でした。それが1977年に日本に変換され、大部分は昭和記念公園になったのですが、この一角は再開発されずに残っていたのです。それを国が払い下げたので、私どもが購入しました。」

立川相互病院では新しい病院に移ってからも差額ベッド代を取らず、無料低額診療事業制度にも参加し、安全、信頼、平等の医療を進めている。

2021.08.01 掲載 ©LinkStaff

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