あれこれ、これほどもっともらしく、これほど長きにわたって、これほどボロを出さずに、ついせんだってまで、えんえんともちこたえた聖徳伝説を、みごとにつくりあげた発案者の、その辣腕に、ほとほと敬服する。ニセモノづくりもここまでくると、超天才的ではなかろうか。
我が国におけるよりぬきの創作の才能は、ヤマトタケルをはじめ、多くの見事な伝説をつくりあげてきた。ほんのわずかな史実から芽を出させ枝葉をのばし、感嘆すべきストーリーをうんだ。平野からあたまをもたげて隆起する山脈のような偉観である。
小林秀雄は、忠臣蔵の芝居に感動しない者は日本人ではないという意味の語を記た。安宅ノ関は今は日本海に沈んでいるそうであるが、しかし義経と弁慶と富樫その他の面々は、今もなお日本人の胸のなかに生きている。ときに虚構は歴史記述よりも強く心に訴えるのである。
さて『帝説』注釈直近版の補注である。そこでは、家永三郎も十七条憲法を聖徳さんの作であると言い立てることはモハヤ通用シナイとあきらめた。また『三経義疏』(十七の章参照)を聖徳さんが講じたと、言いつのってもムダであると悟った。後退また後退である。戦局に利あらずもはや退却しかない。しかしながら、かつて人の印象にのこる言葉を発する名人であった中野重治が、むかし左翼陣営を離脱する進退を転向と呼びならわした、その転向の道筋にも大幅と小幅があると見て、おなじくあとしざりするにしても、五十歩百歩とはちがう、という名文句をはいた。すなわち家永三郎は五十歩さがったところで立ちどまり、態勢をたてなおそうとしたのである。十七条憲法は聖徳さんなるものの編述ではない。それは認める。三経義疏もまた聖徳さんなるものの講義録ではない。それも仕方なく認める。しかし、しかし、である。世間虚仮唯仏是真、これ、これだけは、この遺語と伝える章句のみは、聖徳太子の思想を示すもっとも確実なものである、そう唱えて、一息ついた。
聖徳太子はいなかった。聖徳太子は幻である。聖徳太子は夢であった。聖徳太子は蜃気楼である。聖徳太子は、古代日本における憧れの心情にもとづく理想の人間像を、文字のうえに結晶させたところの、誠に発する虚構である。
聖徳太子の構想は、物および文の、それぞれ三点セットに脚をおく。第一、釈迦像、第二、薬師像、その光背に見る銘文は、はるかのちの世にきざまれた。繍帳に織られて現存するのは、わずか十二文字のみである。そこで『上宮聖徳法王帝説』がむかしに写しとったと称する、太子についての文言を写して補った。しかし『帝説』もまたのちの世の叙述である。物の三点セットは太子と関係がない。
『書紀』編述の作業がすすんでいたころ、支配層の秘められた内部では、聖徳太子のような理想の皇太子像を、いそいでつくりだす必要があった。政権をうばいとって、我が子孫の皇統や長かれと、天武天皇持統天皇の期待をうらぎって、後継者がつぎつぎと若死にする。その次のまたその次の嫡子にと、望みをつないで女帝はがんばった。持統とは、まことにピッタリのおくり名である。 藤原不比等にしてみても、妻(津田由伎子「橘三千代」 昭和50年)が産んだ光明子の婿である首皇子、のちの聖武天皇、この人が成人するまで、対抗勢力を排して持ちこたえなければならぬ。皇室および皇統が確立する以前の時代である。ましてや、ついせんだって出来たばかりの、まだ耳あたらしい皇太子なるものの、その称号、正統、存在、地位、有能、高貴、政治力、学力、作歌、仁慈、立法、信仰、天寵、なかんずく天皇にかわって万事を決裁する予定の潜在的な可能性、すべてをひっくるめて皇太子の尊厳をうちだす必要がある。
聖徳太子の幻像は、政治の必要に対応して政治の力でつくられた。 要請を把握し欲求を感知し、事態の動向に即応し、先見による対策を講じるのが政治である。
--あとがき--
この本は、平成一五年の秋、新潮社の柴田光滋さんと、池田の銘酒呉春の盃をあげ、歓談しているなかから生まれた。
聖徳太子がいなかったことは、とっくに学界の常識となっている。いまさら素人の私などが出る幕ではないのであるが、また一般人の立場からながめると、聖徳太子がフィクションであるという知識が、世間のすみずみにまで広がっているとは、かならずしも言えないように見てとれる。この問題をめぐっての学術書はすでに出つくしているのだから、屋上屋をかさねるまでもないというところから、気楽に気やすく読めるよう、なにを書いてもよい随想ふうに、先学のなしとげた見事な研究成果を、おそるおそる禿筆でなぞってみようかと、酔うほどに興が乗って、身のほど知らずの話になった。