神津 仁 院長

神津 仁 院長
1999年
世田谷区医師会副会長就任
2000年
世田谷区医師会内科医会会長就任
2003年
日本臨床内科医会理事就任
2004年
日本医師会代議員就任
2006年
NPO法人全国在宅医療推進協会理事長就任
2009年
昭和大学客員教授就任
2017年
世田谷区医師会高齢医学医会会長
2018年
世田谷区医師会内科医会名誉会長
1950年
長野県生まれ、幼少より世田谷区在住。
1977年
日本大学医学部卒(学生時代はヨット部主将、運動部主将会議議長、学生会会長)
第一内科入局後、1980年神経学教室へ。
医局長・病棟医長・教育医長を長年勤める。
1988年
米国留学(ハーネマン大学:フェロー、ルイジアナ州立大学:インストラクター)
1991年
特定医療法人 佐々木病院内科部長就任。
1993年
神津内科クリニック開業。
7月号

トイレ考古学入門(II)

   女優の岸恵子が、鶴田浩二の車で撮影の後に送ってもらったときのエピソードに、畦道から田んぼに落ちたことを書いている。1950年頃の話だ。
   街灯などない山の上で、「ま、降りてみなさい。ネオンなんかよりきれいな星がキラキラしている」と鶴田に促されて降りた山の上からは、満天の星空が見えた。
「ここ、すごく高い山なのね」と嬉しさのあまり岸は「派手なステップを踏んで踊りだした。と、次の瞬間、片足がズブズブと冷たいところに落ちた。
「きゃ、変な臭い」
「君は浮かれすぎて、あぜ道から肥しをまいた田んぼに落ちたんだよ」と鶴田にいわれて、--満天の星と、ロマンティックとは言えない肥しの臭いの中で、わたしたちは笑い転げた。--と書いている。


   肥やしが人糞であることは周知の事だが、昔の日本人は有機農業についての理解がある、というより、それが当たり前の日常であったから、美女の足が糞まみれになっても、嫌悪感、悲惨さを感じるのではなく、笑い転げるという受容的な心のあり方を持っていたのだろう。我々が子供の頃、昭和20年代でもトイレは「ポットントイレ(ウンチが落ちてポットンと音がする)」で土坑(汲み取り)式トイレだった。世田谷はほとんど農地で畑では肥やしを使っていた。当時「おわいや(汚穢屋)さん」と称していた汲み取り屋さんが天秤にオケを二つ背負って汲みに来ていた。一回いくらで買い取るのだ。そのうちバキュームカー(1951年に川崎市が日本で初めて導入した)が太いホースをトイレの肥溜から強引にズビズビと吸引していくようになった。排泄量が多くて汲み取り回数が少ないと、し尿の溜まる水面が上がって、良い便が出るとお尻に跳ね返りが来る。これを「お釣りがくる」といっていた。毎年台風が来ると、近くの川が氾濫し、床下浸水、床上浸水などが頻繁に起きていたから、当然、トイレも水浸しになってし尿が溢れ出る。その色と匂いが畳に染み付いて、台風一過の晴天には、我が家も近所の家々も畳を天日干ししていたのを思い出す。

ベルサイユ宮殿のトイレ事情


   ルイ13世が、家族と過ごすための狩猟小屋として作られたベルサイユ宮殿は、その後1620年代に王の威信を示すために華美で複合的な施設となり、裁判所を含めると数千人が生活する場となったにもかかわらず、ほとんどトイレがなかった。そのため、使用人たちは木立や生垣に隠れて用を足し、王族の高貴な方々は廊下の隅をトイレとして利用し、廊下はそのために汚れてとても臭かったという。し尿で汚れたドレスの裾をダラダラと引きずって、歩きながら排泄する女性もいたという記載もある。chamber potという寝室用便器は個人持ちで、宮廷に仕える臣下たちも、宮殿で仕事をする時に自前のおまるを持ち込んで用を足し、終わったら持ち帰るという生活をしていたらしい。ゲストとして宮殿に来た要人がそれを借りるということもあったようだが、その数は300足らずで、数千人が生活する宮殿を衛生的な場所にするには十分ではなかった。

   フランス人はこの臭いを誤魔化すために香水を発明した、というのが通説だ。ハイヒールは中世のし尿で汚れた道を歩くのに発明された、という俗説もあるが、資料を調べると、それはあまり当てにならないようだ。しかし、中世の人がし尿を含めて何でもかんでも道に物を捨てたのは事実のようで、雨が降って道が川になると、それがセーヌ川やテムズ川に流れて、汚水だらけのとても汚い川になっていた。



   ロンドンやパリの道路は、ゴミと汚水の捨て場のようで、雨の日にはぬかるみ、想像を絶する臭気が街中に漂っていたという。道路には汚物を集める排水溝も作られたが、すぐにつまって役に立たず、とりあえず歩行者が歩きやすいように道路の両端を一段高くして歩道をつくったという。今の歩道が車道より高いのはその名残かもしれない。


し尿は投げ捨て


   13世紀のフランス王ルイ九世が夜明け前に教会に向かう途上、都市に住む学生が窓から捨てた汚水をかぶってしまったという逸話が残っているくらい、ヨーロッパの各都市におけるトイレ事情はお粗末だった。中世末のイタリアの詩人レオナルド・ブルーニは、不潔な都市をそしる描写として「夜のうちに出た汚物を、朝になるとそのままそっくり他人の目の前に投げ捨て、それを道路に放置したまま、足で踏まれるに任すのである」と語っている。イタリア、イングランド、ドイツなどの都市で、排泄物の投げ捨ては罰金という法的規制があっても、住民は必ずしもそれに従ってはいなかったのだろう。

   14世紀頃になると、ヨーロッパの都市は人口が過密状態になり、3~5階のアパート風の建物が軒を連ねて建てられた。各家庭には排泄用の容器があり、容器に排泄したし尿は、屋外の定められた場所に捨てるという決まりがあったが、人々はその決まりを守らず人通りの少ない時を見はからって、窓から下の道路に向かって投げ捨てていた。前述のルイ九世の逸話のように、通りがかりの通行人がし尿を頭から浴びることになり、それを避けるためにマントを羽織って傘を携帯していたという。廃棄物処理、下水処理、上水道の完備などは遠い未来図のようであった。


ノルマン人のトイレ


   ノルマン人とは、日本大百科事典によれば、「スカンジナビア半島地方のデンマークに住み,8世紀以降バイキングと呼ばれる海賊として,ヨーロッパ各地を略奪して恐れられた北方ゲルマン諸部族。語義は『北方人』。9世紀後半からデーン人を中心とするバイキングがフランス北西部のセーヌ川下流地域を侵略。 10世紀初頭,ロロを指導者とするバイキングがセーヌ川地域を占領し,911年のシャルトルの戦いの結果,西フランク王シャルル3世 (単純王) からエプト川以北の地を公式に与えられ,ノルマンディー公国を建設し,フランス語を話し,キリスト教に改宗して定着した」人々だ。彼らは城塞の構築に長けており、そのトイレも利便性が高く、衛生的な物を作っていた。



   テムズ川沿いに建つ「ロンドン塔」は、1066年にイングランドを征服し、ノルマン朝初代イングランド王となったウィリアム1世が、外敵を防ぐために1078年から建設を始めた堅固な要塞だ。ロンドン塔の中心にあるホワイト・タワーではNorman Garderobeといわれる、ノルマン人が城塞に設置していたトイレが見学出来る。このトイレの説明書には「これはオリジナルのノーマントイレで、大きな部屋に設えられており、ホワイトタワーにある6つのトイレのうちの1つです。このフロアにはもう2つトイレがあって、向かい側の壁の近くにあるものと、もう一つは北西の小塔にあって、階段を降りたところです。もう二つは、玄関部屋の北側の壁の下にあります。排泄物は穴の中で地上に落ちるようになっていて、奈落の底のように見えるものです。ほとんどのトイレはこの建物の北側に位置していて、川に面している建物の入り口からは遠いところにあります」とある。

   こちらのイラストには、その構造がよく解るように描かれており、説明書きには次のように書かれている。




「多くの塔内の部屋は、らせん階段で上下につながっている、多くのトイレのすぐそばに作られた。トイレは外壁に作られた出窓(城塞の狭間)に作られており、装飾が施され、細いパイプによって換気されていた。座面は石の板を単純に丸く切り抜いて置かれていた。内壁にしつらえられた個室(トイレ)は、垂直な縦穴につながっていて、それが壁の中であったり、壁の外に作られたりしていた。これらの縦穴は、壁の底辺にある肥溜めにつながっていて、定期的に清掃されていた。城壁の外側に沿って、小さいが潜在的に効果的な予防策となりうる、それぞれのトイレの便座は、壁に面して外装部分から突出した石造りの腕木で支えられていた」


古代ローマのトイレ


   北欧から次第にヨーロッパ全域を支配下に置くようになったノルマン人の衛生的なトイレは、城塞内の公衆衛生に貢献したであろうし、それが延いては軍事力の差になった可能性がある。静岡県立大学の岩堀教授の書いた「古今東西糞尿譚」によれば、古代バビロニアやモヘンジョダロ、ギリシャの都市国家、古代ローマなどの遺跡からは下水道の跡が発見されているが、ペロポネソス戦争(BC400年頃)当時のアテネでは下水溝の跡は見つかっていない。このため糞尿が場外に排除されず、籠城による人口密集で疫病が蔓延して、アテネはスパルタに負けたという。また古代ローマ帝国では、財政難の解消に公衆トイレを有料化し、強制的に使用させた。当時を再現した様子を見ると、トイレは社交場であり、語らいの場所でもあったようだ。しかし、水利を使った下水道は、市内のどこにでも設置できるものではない。当然のことながら屋外で用を足すものが増えて疫病が蔓延、帝国衰退の原因になったという。



   近代になっても、戦時における感染症や栄養障害、衛生環境の悪化は、兵士を傷つけ、死に至らしめて戦線を困難にする要因だ。第一次世界大戦で流行したスペイン風邪、日本陸軍の日清・日露戦争における脚気による病死者は戦死者を上回った。


<資料>

1) 黒崎直:
トイレは古代にもあった(トイレ考古学入門); 吉川弘文館, 2009.
2) 岸恵子::
岸恵子自伝; 岩波書店, 2021.
3) ハイヒール:
https://bit.ly/3vXIcbL
4) 世界の下水道の歴史(静岡市):
https://bit.ly/3h1gmHC
5) 悪臭の都・パリのトイレの歴史を解説:
https://bit.ly/2SxgvJl
6) A day in the life of the royals:
https://bit.ly/3xYSvh7
7) Medieval Plumbing, or, The Glory of the Garderobe:
https://bit.ly/3qt9hCu
8) 古今東西糞尿譚:
https://bit.ly/3gXZnFS
9) David Macaulay’s Visualizations:
https://bit.ly/3xWoDSA
10) How the Romans did their business: images of Latrines throughout the Roman world:
https://bit.ly/3gYAUQQ

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