神津 仁 院長

神津 仁 院長
1999年
世田谷区医師会副会長就任
2000年
世田谷区医師会内科医会会長就任
2003年
日本臨床内科医会理事就任
2004年
日本医師会代議員就任
2006年
NPO法人全国在宅医療推進協会理事長就任
2009年
昭和大学客員教授就任
2017年
世田谷区医師会高齢医学医会会長
2018年
世田谷区医師会内科医会名誉会長
1950年
長野県生まれ、幼少より世田谷区在住。
1977年
日本大学医学部卒(学生時代はヨット部主将、運動部主将会議議長、学生会会長)
第一内科入局後、1980年神経学教室へ。
医局長・病棟医長・教育医長を長年勤める。
1988年
米国留学(ハーネマン大学:フェロー、ルイジアナ州立大学:インストラクター)
1991年
特定医療法人 佐々木病院内科部長就任。
1993年
神津内科クリニック開業。
12月号

廃業そして開業 そのⅠ

「えっ、先生がここ止めちゃうんですか?」
患者さんは一様に驚いて、真剣な眼差しで私の方を見る。
「このビルの契約更新が12月31日なんです。今年の新型コロナ騒ぎで、あと2年このまま賃貸で続けるのは大変になってきたので、自宅の一部をリフォームして新しく開業することにしました」
ここで患者さんは安心したように息をつく。
「良かった、先生が続けて診てくださるんですね。そうですよね、今は大変な時代ですものね」
27年間このみかみビルで診療を続けられたのは、良い患者さんに恵まれたからだと今更ながら思う。父の葬儀で1日休んだ以外、月曜から土曜日まで27年間クリニックを休んだことはなかった。その思いが伝わっているのだろう、多くの患者さんの中で他院での診療を希望した人は数人しかいなかった。

医業継承は難しい


 古希を迎える前に、医師人生の再設計を始めた。以前からearly retirementを望んでいたから、そろそろ現役医師としての前線から退き、週に何回か外来に出て、後は悠々自適の生活を送ろうと考えていた。ヨット部の後輩で地域の小病院の2代目だったO先生は、院長・理事長職をM&Aで譲り、自分は一勤務医になった。本当のところは分からないが、彼の同級生に聞いてみたが楽しくやっているといっていた。また、親しくさせて頂いていた世田谷区医師会のA先生は、「もう私も歳だから、診療所を閉めて特別養護老人ホームの施設長になることにしました」と、ある会合の時に教えてくれた。多分A先生が70歳前後だったと記憶している。開業医のLife spanは昔と違って、目が悪く耳もあまり聞こえないような100歳になっても患者を診ていて良い、という訳にはいかない。「あの先生、胸の音は大丈夫だといったけれど、聴診器が耳から外れてたよ」などという診療ができたのは50年前の話だ。私も、良い人がいれば神津内科クリニックを継いで欲しいと考えていた。たまたま昔からの知人で医療関係のコンサルをしている方が、こんな方はどうでしょうと紹介してくれた外科の先生がとても良い人で、私もそのつもりで色々と準備を始めていた。今年の年賀状には「若い世代にバトンを渡すことになった」と書き、昨年の忘年会には彼を呼んで皆にお披露目までしたのだが、諸事情からこの話が頓挫した。新型コロナウィルスの感染が拡大し、私も彼のクリニックも医業成績がガクンと落ち込んだことも要因の一つだった。昔から、医業継承は難しいといわれている。その一つは、お年寄りの先生が若い先生を頼りなく思って、こんな若造にワシの患者を預けるわけにはいかない、と拒否反応を起こしてしまうのでうまく成立しないのだといわれていた。70代80代の先生にとって、30代40代の先生はヒヨッコに見えてしまうらしい。私はむしろ、25年前に世田谷区若手医師の会を作って、若手医師の実力をお年寄りの医師会員に認めさせたという張本人だから、そんなことは思わなかったし、候補者として手をあげてくれた先生には感謝の念しかなかった。しかし、それでもなかなか上手くいかないのだから、日本の社会システムが地域医療を支えるシステムになっていないのだという以外ない。


廃業準備


「ここは若林一丁目、この地図でいうと世田谷通りと環七の交差点の、ここですね」 私が作った地図を見せながら患者さん一人一人に説明をする。

「今度の新しいクリニックは、5丁目のここです。ここから北のほうに環七を行くと世田谷線の踏切がありますね、ここが若林の駅で、商店街を上って、ここがスーパーTopで、環七へ出る手前を左に曲がると、ここですね、ここが新しいクリニックです。キャパシティがここのみかみビルの1/5になってしまうので、レントゲンも入れられないんです」

この説明を9月終わりから毎日、一人一人にして、了解していただくようにお願いした。このストロークを通じて、いかに通ってくる患者さんが神津内科クリニックを頼りにしているかを改めて理解した。大事な役割を担っている地域医療担当医である私が、この地を捨 てて静岡県の特別養護老人ホームの施設長や、病院勤務医にならなくて良かったと思う。
神津内科クリニックの名前をそのままに、若林1丁目から5丁目に移るについては、電話番号も変わらず、医師会の部会も変わらない。距離も500m程度でそれほど遠いわけではないが、医療機関としては一度「廃業」して「新規開業」という手順を踏まなくてはならない。

行政的な手続きとしては、以下のようなことになる。


 レントゲン装置については、その廃止届が別途必要になる。開業する時にはレントゲン装置を入れるためのレントゲン室を作る。周囲を鉛の板で箱のように覆っているので、頑丈だ。壊す時にはこれが仇になって費用も嵩む。レントゲンのような医療機器は認可を受けた專門の業者が解体し廃棄処分をしてくれる。クリニックで見積もりをお願いした業者は良心的な人で、リーズナブルな値段を出してくれたが、それでも数十万円かかった。クリニック自体の原状回復工事は安く見積もっても1000万円近くが必要だったから、開業するのも廃業するのも一仕事だ。
 今回、11月28日の土曜日でみかみビルでの診療を終えるのだが、12月1日からの原状回復工事に邪魔にならないようにきれいに片付ける必要がある。片づけるといっても、医療機関の整理は並大抵のことではない。カルテとレントゲン写真が27年分クリニックの中に蓄えられているから、それをどこかに保管しなければならない。神津内科クリニックでは、患者さんのためにと、法的には5年の保管義務で良いことになっていたが、10年間保管し続けてきた。まれにだが、長く世田谷の地を離れていた患者さんが10年ぶりに帰ってきて、自分のカルテがあることに驚き「あらぁ私のカルテがまだあったんですね!」と笑顔を見せることがあって、それが嬉しくて取っていた。しかし、それもカルテを整理する段になると仇になった。今回は、クロネコヤマトの会社がカルテとレントゲンを倉庫で保管し、5年経ったものは機密文書扱いの溶解処理をしてくれるサービスのあることを知ったので、そちらにお願いすることにした。もちろん60か月で百数十万円単位の支払いが必要だ。何をするにも資金がなければ始まらない。
 新しいクリニックは今現在建築中で、みかみビルの資材をそのまま新クリニックに移すことが出来ないから、一時的に別の場所に保管することが必要だ。新しいクリニックが完成したら、すぐに使う電子カルテやPC、診察机、レーザープリンター、冷蔵庫その他もろもろの事務用品、activeな紙カルテなどを保管するために、トランクルームを借りた。こうした木目細かい計画と準備がなければ、どれほど混乱するか分からない。数年前に東邦大学医療センター付属大橋病院の引越をTVでやっていたが、それに匹敵する困難があるのだ。


開業準備


 27年前に開業した時には、一緒に働いてくれる一級建築士の井上さんという強い味方がいた。保健所への届や内検の立ち合いなど、井上さんも初めての経験だったがスムーズに行った記憶がある。新規開業のクリニックは、まだ診療機能が整っておらず、必要な手続きもそれほどはない。しかし、すでに27年も診療していると、保険診療上多くの届けを更新する必要があるので大変だ。
 私のところでは、事務スタッフが優秀なので、ここらへんは彼女たちに任せておきたいと考えているが、最終的な責任は私にある。以下に挙げるようないろいろな指定医療機関としての役割や、保険診療上の点数算定の根拠となる施設基準を、新しいクリニックとして再度獲得し、医業収入をきちんと取得するあたりまえの診療所経営を目指さなければならない。

 ここ数年、医業継承のために手厚くサポートしてくれた会社の人が、私のためにTo-Doリストをつってくれた。これを参考にして、再度の新規開業に向かってまっしぐらに走らなければならない。古稀、古稀と言っている暇はない。

〈資料〉

1) 東京都保健福祉局「診療所・歯科診療所の開設等」:
https://bit.ly/3q5w8U3

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