神津 仁 院長

神津 仁 院長
1999年
世田谷区医師会副会長就任
2000年
世田谷区医師会内科医会会長就任
2003年
日本臨床内科医会理事就任
2004年
日本医師会代議員就任
2006年
NPO法人全国在宅医療推進協会理事長就任
2009年
昭和大学客員教授就任
2017年
世田谷区医師会高齢医学医会会長
2018年
世田谷区医師会内科医会名誉会長
1950年
長野県生まれ、幼少より世田谷区在住。
1977年
日本大学医学部卒(学生時代はヨット部主将、運動部主将会議議長、学生会会長)
第一内科入局後、1980年神経学教室へ。
医局長・病棟医長・教育医長を長年勤める。
1988年
米国留学(ハーネマン大学:フェロー、ルイジアナ州立大学:インストラクター)
1991年
特定医療法人 佐々木病院内科部長就任。
1993年
神津内科クリニック開業。
12月号

クルーズ客船(コスタ・ネオロマンチカ号)搭乗記 III

 今回のクルーズ日程は、以下のように福岡から出発して、舞鶴→金沢→堺港→釜山と回って福岡に帰ってくるコースだ。

 昼間は乗客が観光に行ったり、海水を被った船体を洗ったり、生鮮食品や必要な物資を搬入する時間として埠頭に着けているので、移動するのは夜間航海になる。

 汗をかいた身体をシャワーで洗い流し、その日のドレスコードに合わせて身支度をしてレストランに向かう。船がゆっくりと港を離れ、沈みゆく夕日を眺めながらイタリア料理のフルコースを食べる。食後にはフロアを移ってカクテルを飲みながらショーを見ることもできる。公海上12マイル陸地から離れればカジノが開くので、スロットマシンやルーレット、トランプゲームなどを楽しむこともできる。私たちもスロットマシンで30分ほど遊んだが、10ドル賭けて、清算した時には1ドル札が9枚戻ってきた。ハラハラドキドキしながら1ドルで遊べたと思えば悪くない。そうこうしているうちに夜も更けていく。

天橋立

 舞鶴では伊根町の舟屋を見た後に、天橋立まで足を延ばした。クルーズ船を出たのが午後の2時。伊那町を出たのが午後4時。天橋立の股のぞきとして有名な傘松公園に着いたのが午後4時50分。実際に天橋立の砂浜に立てたのが午後6時を回っていた。

 この日のactivity logを見ると、11,869歩、8.46kmを歩いた記録が残っている。バスに同乗したご同輩たちは皆さん元気だ。九州のおじいさんたちはカラ元気で「ワシはシートベルトなどいらん」などと勝手なことをいって、男尊女卑を貫いておばあさんたちを困らせていたが、実は尻に敷かれているのが見て取れた。しかし、年を取り過ぎてからでは、クルーズと観光の両方を楽しむのは難しい。我々が、70歳のほんの少し手前でこの旅の洗礼を受けたことは、とりあえず時宜にかなっていたのかもしれない。この日クルーズ船に帰ってきたのは午後7時30分を回っていたから、5-6時間の行程をこなしたことになる。クルーズ船を降りてからの観光は、思った以上にハードで体力が必要だった。

出雲大社

 金沢を出た後は、台風11号の影響で天候は下り坂になった。海は大分荒れていて、船内での移動にも揺れを感じるようになっていた。翌朝船が堺港に着いた時には曇りだった天候は、バスに1-2時間弱乗っている間にかなり本降りになった。カンカン照りの出雲大社に参るより、そぼ降る雨のしっとりとした空気の中で参りたいと願っていたが、これほど降るとは思いの他だった。湿度が高く、気温も高いので、少し歩くと汗と雨とで体も靴もじっとりして、参道を歩く足が重くなる。こんな時は、土産物屋のクーラーの下に立って暑さを紛らわせる。出雲そばを食べた店は、逆にクーラーが聞きすぎて体が冷えた。

 バスガイドが、大国主命が稲葉の白兎に説教をしている銅像、日本海の荒波から輝く球(=幸魂:さきたま、奇魂:くしみたま)が現れて「ムスビの大神」になる伝説などを解説してくれた。その後に「はい、それではこの先の鳥居を通るときには、鳥居の柱に手を置いて願うと金運アップ、お金に困らなくなるというご利益がありますから、どうぞ触っていってください!」と一段と大きい声をかけてくれた。これはクリニック再建のためにもしっかりとお願いしなければと、家内と一緒に祈って触った。縁結びの神でもあり、多くの患者さんとのご縁も預かりたいと、御本殿を巡りながら「二礼四拍手一礼」という出雲大社独特のお参り方法で参拝させていただいた。帰る頃には雨も上がり、不思議な神話的な体験とともに出雲大社ツアーは完結した。

釜山へ

 堺港からは日本を離れて、韓国第二の商業都市釜山へ向かう。やはり台風11号の影響で、雨が降ったり止んだりの、ぐずついた天候だったが、2年前に建てられたというクルーズターミナルが空港ビル並みに素晴らしく、久しぶりの韓国訪問にテンションが上がった。空港ターミナルにあるのと同じような熱センサーを通り、パスポートを見せてcustomsを抜ける。飛行場のようにたくさんの乗客がいるわけでもなく、1-2人並んだだけですぐに入国が完了した。

 日本の港で下船する時には、日本人はパスポートのコピーを出国係官に見せ、証明書代わりのコスタカードを見せると、一人一人バーコードをチェックし、顔写真で本人確認して下船するというルールになっていた。一番初めにこのクルーズ船に乗り込むときに、パスポートは没収されてコピーが渡されていたからだ。何百枚というパスポートを補完して、なくなったらどうするのかと思うが、そこら辺の管理は厳重なのだろう、我々も何の不安も抱かなかった。

 外国である釜山の場合には、実際のパスポートを携帯する義務があり、コピーでは通関できない。今回は、前日に客室クルーが直接パスポートを手渡してくれて、それを釜山では携帯することになった。クルーズターミナルの1階にはすでに韓国人ガイドが旗を持って待っていて、クルーズ船のツアーアドバイザであるイタリア女性と綿密な打ち合わせをしていた。何回か人数確認をしていたが、合わないらしい。結局ツアーを一人キャンセルした人がいたらしく、最終的には問題なくツアーバスへと移動が出来た。小柄でエネルギッシュなツアーガイドのファンさんは、とても流暢な日本語を話す。私が前列から2列目の席で熱心に彼女の説明を聞いていたら、最後に「とても熱心に勉強していましたね」と褒められた。

韓国ガイド黄(ファン)さんのトーク

 「はいみなさま、こんにちは!私の名前はファンです。友達から、日本のテレビに出る人であなたに似ている人がいる、といわれて、誰だか分かりますか?はい、私は見たくなかったんですが、見たら少し似ていましたよ。光浦さんです。私は韓国の光浦さんです。この赤いベストと、コスタのCのマークの旗と、光浦さんを見て、はぐれないようにお願いします。バスのフロントガラスには、C35のステッカーが貼ってありますから、よろしくお願いします。それから、今皆さんに配った紙には、韓国語で『私は道に迷いました。ここに書いてある電話番号に電話してください』と書いてあります。ですから、迷ったら、これを出来るだけ優しそうな韓国の人に見せてください。いいですか、優しそうな人ですよ。そしたら、ここに私の携帯の電話番号が書いてあります。電話してください」。

 「釜山は韓国の西の端ですね。日本に近いところです。昔戦争が終わったときに、たくさん釜山に日本人が住んでいました。ここから日本に帰る人がたくさんいたんですね。それでは、釜山から一番近い日本の場所はどこですか?皆さん分かりますか?そう、対馬ですね。今日は見えませんが、ここから島影が見えますよ。対馬からは、釜山の花火が見えるそうです」

 「韓国の年の数え方は、数え年です。生まれたときに1歳と数えるんですね。それですぐに年を越すと0歳なのに2歳になります。だから、干支で換算すると年齢が分からなくなるんです。韓国人の年を知りたければ、何年生まれ、という生まれた年を聞いてください。私は50才なのに、韓国では52歳なんですよ」

 「韓国は、戦争があって、北朝鮮が38度線を越えて南に進軍してきた時には、ソウルは瞬くうちに占領されて攻め込まれました。その時に北から多くの人が釜山に避難してきました。北の人たちは温かいオンドル部屋の中で冷麺(ネンミョン)を食べるのが好きなんですが、でも、釜山は南だから冷麺の材料(蕎麦粉やデンプン)がないんです。それでも、似たようなものを食べたいから、米軍の調達物資の小麦粉を使ってミルミョンを作りました。少し細目でもちもちとした食感がありますので、お時間があれば食べてみてください。それから、今の大統領は釜山出身で、両親は北から避難してきた人です」

 なるほど、ムン・ジェイン大統領が北朝鮮との融和を唱えるには分けがあったのだ。これほど短時間で釜山のことを勉強する機会はなかなかない。「私は韓国のビールよりアサヒスーパードライが好き」「韓国の俳優より木村拓哉が好き」というファンさんに感謝だ。

 福岡に帰るときには、釜山のレインボーブリッジである廣安大橋(クァンアンデギョン)に明かりが灯り、七色にライトアップされて我々の船を見送ってくれた。これでこの航海は終わりになる。明日は福岡空港から羽田に向かう。5泊は長いようで短い、私にとっては慌ただしいクルーズ客船の旅だった。たぶん、今年はこの思い出だけで、後は仕事に邁進できそうだ。来年はどんな年が待ち構えているのだろうか。いよいよ古稀を迎えて、どんなチャレンジが出来るのか。人生のソフトランディングを考えてみたいと思う。

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