神津 仁 院長

神津 仁 院長
1999年 世田谷区医師会副会長就任
2000年 世田谷区医師会内科医会会長就任
2003年 日本臨床内科医会理事就任
2004年 日本医師会代議員就任
2006年 NPO法人全国在宅医療推進協会理事長就任
2009年 昭和大学客員教授就任


1950年 長野県生まれ、幼少より世田谷区在住。
1977年 日本大学医学部卒(学生時代はヨット部主将、
運動部主将会議議長、学生会会長)
第一内科入局後、1980年神経学教室へ。
医局長・病棟医長・教育医長を長年勤める。
1988年 米国留学(ハーネマン大学:フェロー、ルイジアナ州立大学:インストラクター)
1991年 特定医療法人 佐々木病院内科部長就任。
1993年 神津内科クリニック開業。

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「A doctor’s touch ~医の道は日本も世界も変わらない~ Ⅱ」

 3月16日に、東京内科医会が30周年を迎えたお祝いの会があった。同時に行われた医学会で私も講演をしたのだが、特別講演で永井友二郎先生が「内科医ということ」を話された。先生は「実地医家の会」を立ち上げ、現在の日本プライマリ・ケア連合学会の基礎を築いた方だ。95歳になられる先生が歩いて来られた医の道を淡々と語られる中に、我々にとって大切な事がいくつもあった。こうした素晴らしい先生が、生きている間にいろいろな言葉を残していく事の大切さを感じた講演だった。そしてそれは、バルキーズ医師の言葉とも重なる部分も多かった。

 4月号からの続きを始めよう。
 バルキーズ医師は、こう話を継いだ。
「ベルは実際に衣服を脱がせ診察をする前に、何と多くの情報を得ていたことか。医学の教師であり生徒でもある私はこの話に大変感銘を受けました。しかしながら、我々医師が、五感を使うという簡単な手段で体の中が調べられるようになったのは、きわめて最近のことなのです。

 こちらの写真はレオポルト・アウエンブルッガー(Leopold von Auenbrugg、オーストリアの医師)です。1700年代後半に、彼によって打診法が開発されました。きっかけは彼が宿屋をやっていた父親の息子だったことです。父親はかつて地下に下りて行って、ワイン樽をこつこつ叩き、どの位ワインが残っているか、またいつ追加注文したら良いかを見計らっていたのです。彼が医師になった時に、父親と同じことをやり始めたのです。胸部を叩き、腹部を叩き、基本的に我々が現在知っている叩打法すべてをです。打診はいわば当時の超音波診断ですが、今日知られている全て、臓器肥大も心嚢水も肺水腫も、腹部の異変なども全て、この優れた著書『新発見(Inventum Novum)に記されています。


 この発見は忘れ去られるところでしたが、著明なフランスの医師コルヴィザール、彼はナポレオンの主治医であった事だけで有名でしたが、彼はこの打診法を改めて紹介し、復活させました。1~2年後に、ラエンネックによって聴診器が発明されるに至ります。彼がある日、パリの街を歩いていた時のこと、棒で遊んでいる二人の子供を見かけました。一人がその棒の端っこをひっかいて、もう一人の子供が別の端っこで音を聞いていました。その時にラエンネックは、これは胸部や腹部の体内の音を聴くのに良い方法だと考え、これをcylinder(シリンダー)と名付けました。後にstethoscope(聴診器)と改名し、こうして聴診器と聴診法が生まれたのです。18世紀の終わりから、19世紀初頭の数年間で急激に、手術を行う理髪店は診察をして診断をする医師(physician)に取って代わられました。


 当時の人々は、どんな症状であっても理髪店に行っていました。理髪外科医(barber surgeon)は理髪店で吸引療法(cupping)、瀉血療法、洗浄療法、そしてお望みなら髪も切ってくれました。おまけに歯も抜いてくれました。ただ、診察行為は全くありませんでした。事実、ご存知の方もいるでしょうが、理髪店の赤と白の縞模様のポールは、血に染まった包帯から来たものなのです。上下の半球状の物体は血液を集める容器を表しています。
 聴診と打診の登場は、転換期を象徴するものでした。医師が患者の体内に注目し始めたのです。個人的にこちらの絵はそうした決定的な時代の頂点を表しています。とても有名な絵で、ルーク・フィルデス作『医師』です。彼はテート美術館の創立者である、テート氏の依頼によって描きました。社会的に影響力のある絵画を頼む、と依頼されたのです。
 医師がテーマに選ばれた興味深い話があります。フィルデスの長男フィリップは、九つの時に短期間の病を経てクリスマス・イヴに亡くなりました。息子の横で数日に及び寝ずの看病を続けた医師に、フィルデスは医師の姿を描こうと決めたのです。その医師に捧げるためでした。『医師』はとても有名で、各国でカレンダーや切手のデザインになっています。よく思うんです。もしフィルデスが現代に、2011年にこの絵画を依頼されたなら、一体何を描くのだろうと。患者の代わりにパソコン画面をもってくるのでは?


ルーク・フィルデス作『医師』

 私はこんなことをいってシリコンバレーで批判を受けました。『患者はベッドサイドにはおらず、もはやパソコン上のアイコンにすぎなくなった』といったのです。そうしたデータに名前まで付けました。i-Patient(アイ・ペイシャント)です。i-Patientは全米でそのデータは手厚いケアを受ける一方、本当の患者は戸惑い、『みんなどこ?』『いつになったら私の所に説明に来るのだろう?』『誰が担当医?』と。Best medical careの定義は、患者と我々医師の間で、物の見方がかけ離れたものになっています。
 こちらの写真(左)を見て頂きましょう。これは私が研修医の頃の回診の様子です。中心には患者がいました。ベッドからベッドへとAttending doctorが責任を持って回りました。最近の回診の様子(写真右)はこんな風です。議論は患者から遠く離れた会議室で行われます。議論の中心はパソコン上のイメージとデータのみ。不可欠な要素である患者本人が抜け落ちています。

では私が影響を受けた、2つのエピソードを紹介しましょう。
 一つ目は、乳癌を患った友人の話です。彼女に小さい乳癌が見つかりました。私の住む地元で摘出手術を受けました。私がテキサスにいた頃です。その後、術後ケアのために彼女は世界で一番のがんセンターを探し始めました。お目当ての所が見つかり、彼女はそこに行くことに決めました。数か月後に町に戻った彼女を見て私は驚きました。どうしてここで地元のがん専門医に継続ケアをしてもらっているのかと。
 私は彼女に聞きました。『どうして帰ってきてここでケアを受けているんだい?』すると私の話を遮って『がんセンターはそれは素敵なところだったわよ。とてもきれいな建物で、大きな中庭があって、Valetパーキングだし、自動ピアノの演奏があったり、コンシェルジュがあちこちに連れて行ってくれるし…』『だけど…、だけど』と彼女はいうんです。『彼らは私の胸に触らなかったんです』と。


 ここは私とみなさんと議論のある所でもあります。多分、胸に触る必要はないかもしれません。身体の内外をスキャンし、彼女の乳癌を分子レベルで理解しているのでしょう。しかし、彼女にとっては深刻な問題でした。それが、地元のがん専門医に診てもらうという決心をするのに十分な理由になったのです。彼女が行くと医師は毎回注意深く乳房を診察し、腋下リンパ節、頸部、鼠径リンパ節を触診し、徹底的に調べたのです。そして、彼女に思慮深く丁寧に話をしたのです。これこそ彼女が必要だったことでした。私はこの逸話にとても感化されました。


 もう一つ私が感化された逸話があります。スタンフォードに移る前、私がテキサスにいた時でした。私には、慢性疲労に興味を持っている医師だという噂が立っていました。皆さんが嬉しがるような噂ではありません。というのも、なにせ手ごわい相手です。彼らは往々にして家族に見放され、医療機関では苦い体験をし、彼らを失望させた人たちの長いリストを持って、準備万端整えて来るのです。
 私は最初の患者を診察した早い時期から、今までの診療録を抱えたとても複雑な患者を、新患枠の45分間では十分に扱うことが出来ないことを学びました。もし同じ事を繰り返したなら、彼らを落胆させるに違いありません。そこである方法を思いつきました。初診では全ての時間を使って患者に自分の状態を語ってもらうのです。中断せずじっと聞くことにしました。普通のアメリカの医師は、14秒で患者の話に割って入ります。もし私が天国に行き着けるなら、45分ぶんの切符を持っていたからだし、患者の話を中断しなかったからだと思います。それから診察のためのスケジュールを2週間後に予約しました。その時にはじっくりと診察する事が出来ました。とりあえず、それ以外にする事が無いのですから。私は十分な診察を尽くす事を考えるようにしているし、とにかくその回は全てが診察のための回だから、非常に丁寧に診察が出来る訳です。こうした一連の患者の最初の患者のことを思い出しますが、診察の回だというのにまたまたさらに病歴を話し始めたのです。


 そこで、私は『儀式』を始めました。私はいつも、まず脈を計り、患者の手、爪床を診ます。さらに手を滑らせて、肘のリンパ腺へ。それはいつもの手順です。私のこの儀式が始まると、このおしゃべりな患者は静かになりました。私は、その時に身震いするような感覚を覚えました。患者と私は原始にタイムスリップし、儀式を行っているという感覚、私には役割があり、そして患者にも役割があるという。


 私の診察が終わると、患者は畏敬の念とともに『こんな風に診察されたのは始めてです』といいました。もしそれが本当なら、我々の医療システムは間違いなく非難宣告されるべきものです。というのも、彼らは違う方向を向いてしまっているからです。そして一旦患者が身繕いを終えた後に、お決まりの説明に入ります。それは他の医療機関でも聞いたはずの内容です。
『あなたの思い込みではなく事実です』
『良いニュースは、この病気は癌ではありませんし、結核でもありません。またコクチジオイデス真菌症や分かりにくい真菌症でもありません。悪いニュースは、一体何が原因かわからないことです。しかし、まずあなたがすべき事と私達がすべき事があります』と話し、患者が他でも聞いたはずの通常の治療法をいくつか並べてみせます。もし私の患者が魔法を使う医師や魔法の薬を探すことをあきらめて、私と健康へのプロセスを歩み始めるのなら、それは私が行った診察のおかげで、これらの事を話すのに正しい権利を得たからなのだと私はよく思います。診察のやり取りを通して、重要な何かが生まれたのです。


 スタンフォードで、人類学を教える同僚たちにこの話をしてみました。彼らはすぐに「それは古典的な儀式のことだね」と答えました。彼らは、儀式とはつまるところ変化であると分かりやすく教えてくれました。例えば、私たちは華やかで形式的でお金のかかる豪華な結婚式を行います。寂しく惨めで孤独な身から、永遠の祝福への出発を祝うわけです。皆さんが笑っている事が私には分かりません。元々はそういう意味だったのでしょう? 儀式によって、我々は変革する力を信号にして送っているのです。我々は人生の節々でこうした信号を儀式とともに送ります。儀式はとてつもなく大事なものなのです。儀式とは、変革そのものなのです。
 私は皆さんにこうお伝えしたいと思います。ある人がとある人を訪れ、プロテスタントの牧師やユダヤ教の聖職者には伝えなかった事を伝え、驚くべきことに、衣服を脱ぎ、体を触らせる、という儀式、こうした儀式がとても重要なのです。もしあなたが、服を着せたまま診察し、寝間着の上から聴診し、徹底的な診察をせず、こうした儀式をごまかすなら、患者医師関係を固める機会を素通りしてしまうことになるのです。


 私は作家です。最後に私が書いた短い一節を読んで終わりたいと思います。ご覧のようなシーンを想定して書いたものです。

 私は感染症の専門医で、エイズが認識されはじめ、まだ治療法も無い頃、こうした光景に立ち会うことが多々ありました。
 患者の臨終の床に立ち会う際 それが患者の自宅でも病院でも 常に挫折を感じたのを覚えています。何をいわなければいけないのか分かりませんし、何をしたらよいかも分かりません。そうした挫折感から逃れるために、いつも患者を診察するようにしていたのを思い出します。眼瞼を見、舌を見、胸を打診し聴診します。そして、腹部を触診しました。
 私は多くの患者の名前や顔は今でも はっきり覚えています。大きな、窪んでおびえたような目が、儀式を行う私を見上げていました。そして翌日もまた私は同じ事を行うのです。
 では、ある患者についての最後の一節を読みたいと思います。


『ある患者を思い出します。彼はその時点で皺だらけの皮膚に包まれた骸骨と化していました。話すことはできず、普通の薬の効かないカンジダで口はカサブタだらけでした。この地上で最後の数時間前のことです。
 彼は私を目にすると、ゆっくりとした動きで手を動かし始めました。何をしようとしているのか? 小枝のような指は、パジャマの上着に行きボタンを手探りしているようでした。私は、彼が小枝で編んだ籠のように痩せた胸を出したいのだと気づきました。それは捧げものであり、招きでした。それを、私は断ることは出来ませんでした。私は打診をしました。触診をしました。そして胸部の音を聴きました。彼はその時点で、これが私にとってきわめて重大なだけではなく、彼にとっても重要なことだと気づいていたに違いないと思いました。肺のラ音や、心不全に伴うギャロップ音をチェックするのとは関係なく、お互いに省略するわけに行かない儀式なのでした。そう、この儀式は、医師が患者に伝える必要のあった、あの1つのメッセージなのです。しかしながら、神はご存知ですが、近頃、私たちは、傲慢にもそれを消し去ろうとしてしまいました。私たちは、忘れてしまったようです。知識を急速に増大させ、我々の力で人間の遺伝子をすべてマッピングした、とでもいうように。我々は無関心になり、儀式が医師の癒しであり、患者にとって欠かせないということが忘れられ、儀式が意味を持ち、患者に伝えるべき唯一のメッセージだということが忘れられてしまいました。当時の私がそれを伝えつつも、理解は十分ではなかったメッセージ、今ではよく分かるようになったメッセージがこれです。


私はいつも、いつも、いつもここにいます。I will always, always, always be there.
私はこの儀式を通じてあなたを見ています。I will see you through this.
私はあなたを決して見捨てません。I will never abandon you.
私はあなたと最後まで一緒にいます。I will be with you through the end.

Thank you very much.」



 日本では、「医道」という言葉がよく使われる。医の倫理に反しているかどうかをpeer reviewする委員会を、医師会では「医道審議会」というのだ。日本医師会から地区医師会までこの委員会はある。私が地区医師会の副会長だった時に、従来からやられているというこの委員会に傍聴参加したことがあった。寿司屋の二階で行われた会は、顔見せだけで終わり、何の審議も何の議論も行われなかった。勿論、2000年の当時でさえ色々な問題があり、患者から医師会員の医療行為での被害届も出されていたのだが、食事をして「あとは理事にお任せする」とのご意見で終わってしまった。地域医師会の「医道審議会」というのは、医師会でお役御免になった、人品卑しからぬ老医師達の集まりだと分かった。波風を立てぬのがうまくやるコツだ、とそういっているようだった。
 日本でも、バルキーズ医師のように医師に必要な要件とは何か、を熱く語るような医師が、「医道」を語る事の出来る医師として、若い医師達を導いて行く必要があると思う。心臓外科医がもてはやされる時代であっても、患者に寄り添う心医としての内科医の変わらない価値を保ち続けて行く事こそ大切だと。


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Abraham Verghese:「A doctor's touch」
TED Global 2011・18:32・Filmed Jul 2011
http://www.ted.com/talks/abraham_verghese_a_doctor_s_touch
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(6月号に続く)

2014.5.01 掲載 (C)LinkStaff

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