神津 仁 院長

神津 仁 院長
1999年 世田谷区医師会副会長就任
2000年 世田谷区医師会内科医会会長就任
2003年 日本臨床内科医会理事就任
2004年 日本医師会代議員就任
2006年 NPO法人全国在宅医療推進協会理事長就任
2009年 昭和大学客員教授就任


1950年 長野県生まれ、幼少より世田谷区在住。
1977年 日本大学医学部卒(学生時代はヨット部主将、
運動部主将会議議長、学生会会長)
第一内科入局後、1980年神経学教室へ。
医局長・病棟医長・教育医長を長年勤める。
1988年 米国留学(ハーネマン大学:フェロー、ルイジアナ州立大学:インストラクター)
1991年 特定医療法人 佐々木病院内科部長就任。
1993年 神津内科クリニック開業。

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「父の『お別れの会』その一部始終」 - Part Ⅱ -

 岡田英弘氏が、歴史についてこう書いている。
 「歴史とは、人間の住む世界を時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みのことである」(岡田英弘著『歴史とはなにか』文春新書)
 父が生きた95年は、歴史の中では短いものではあるが、大正・昭和・平成という時代を駆け抜けた、一人の人間としての襞の深さ、密度の濃さは相当なものだといえるだろう。今、その歴史の一コマ一コマを客観的に、といっても私の側から見た範囲でだが、「把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する」ことに何らかの意味があるのではないかと思う。実は、父はいろいろな所で自らの歴史を語り、記事にも書いてもらい、自伝的な叙述をしている。しかし、第三者から見て、記憶違いや、思い過ごしが少なからずあり、物語としての脚色や大言壮語の類いの話もしばしば出て来る。そして、何よりも自分の事、あるいは神津家に関係のある話しか語る事はなく、自分の妻である私の母や、長男である私の事、あるいは妹達についての叙述は殆どない。その、極端に自分側からの(selfishな)物語に、私は違和感を覚えるのだ。
 そうした意味で、今度は長男の側から見た父の歴史的側面を叙述し残す事に意義があるのだろうと、そう勝手に決めさせてもらうことにして、この物語を続けて行こうと思う。

 父の残したアルバムを見ていると、昔からよく見た写真がたくさん出てきた。私が小さい子供の頃のアルバムはもちろん白黒で、現像も単純な白枠のいわゆる名刺判だ。アルバムも紙の台紙に直接糊で貼るものだから、大正時代も昭和の初期も変わらない。

 父のアルバムも、そんな感覚で眺めていたから、父の何年か前の過去は、私の何年か前の過去でもあったと言ってよかった。祖父の神津猛は、新しいものを取り入れるのに貪欲な人だったので、写真機は明治時代から父の家にはあったようだ。長野県で初めて自転車に乗ったり、自動車に乗ったりしたのだと、聞いたことがある。神津家十二代当主として祖母のてうと結婚したのが18歳。島崎藤村と会った時に、藤村が「若いのにしっかりとした考え方をした人」と言わしめているから、人物として評価された人だったようだ。その祖父がたくさんの写真を残していた。

 中学生の時の写真はあまりないが、旧制山形高等学校に二浪して入った以後の写真は多い。父は絵を描くのが好きで、最初は画家になろうと思っていたらしい。その後はその腕を生かして早稲田大学の建築科を目指すが、入試に失敗して、長兄の得一郎の諭旨によって山形高等学校を受験したようだ。学生時代は寮に入って大いにバンカラ生活を謳歌した。持ち前のリーダーシップを発揮して、寮長選挙で寮長になっている。私も、日大闘争の反動で活動停止処分になっていた学生会を、医学部5年の時に「翠心会」と命名して再組織化したことがある。教授会や学校側との交渉、各学年の代表委員を決めるために、一学年、二学年、三学年と、学年毎に分かれている教室を仲間と共にオルグして回るなど、今の学生には考えられない活動をしていた。結局その学生会の会長に祭り上げられ、初代翠心会会長になった。つくづく親子は似るものだと思う。

 アルバムに貼られた寮生活の写真を見ると、スナップ写真は少なくて記念写真といった形のものが多かった。写真屋が付いていたのかどうかは分からないが、構図も現像もしっかりとしたものが多い。ここに示す二枚は、その数少ないスナップ写真だ。この頃は電源を使うフラッシュなどなかったはずだから、どうやって光らせたのか不思議だが、うまく撮影されている。
 旧制山形高校の校庭で、焚き火を中心にして高校生達が寮歌を歌いながら腕を組み、舞踊る。基本的にはアフリカやパプアニューギニアの原住民族が陶酔状態で祈りを捧げるように、酒を飲み、歌を歌う事で二酸化炭素が呼気中から出て行って、ハイな状態になって、青春のエネルギーを発散させるというわけだ。当時は、このエネルギーの放出なしに、若い男どもの欲望を昇華させることは出来なかったのだろう。周りで住民が珍しそうに見ているのも時代を彷彿させる。

 昔の人たちは、何かある毎に写真を写真館で撮った。その写真の殆どが修正され、補修されているので、男も女も時代顔の美男美女になっているのは興味深い。高校生が、料亭で半玉(はんぎょく=年少芸妓、芸者の見習い。かつて玉代[ぎょくだい]が一人前の芸者の半分であったことに由来する)を呼んで宴会をして、その記念写真を撮っていることなど、今の学生では逆立ちしてもできない。今なら、すぐにテレビレポーターが飛んで来て、朝のトップニュースになる所だ。

 医学部に入ったのは、父の本意ではなかったようだ。友人に泉さんという身の丈六尺を超える大男がいて「俺は満州に行って馬賊になる。戦争が始まるらしいが、戦地に行けば命が危ない。まずは軍医になれば戦闘員でないから生き延びるだろう。神津、一緒に医学部へ行こう!」と誘われたらしい。
 当時、旧制高校を卒業した学生は、日本中の帝国大学どこへでも入学が出来た。父の敬愛する熊谷岱蔵氏(父の長兄の得一郎の妻歌子の長姉を娶ったので、父にとっては義理の兄になる)が東北帝国大学医科大学出身であり、後に教授となり総長ともなった方だったので、東北帝国大学医学部に進むことになった。
 この頃には、たばこを手に持ち、にこやかにほほ笑む父の姿がある。帽子をかぶってコートを着ている写真も多い。当時のお洒落が身に付いているように見える。医学部のアルバム写真には、階段教室で中央に学用患者を教授が診察し、それを真剣に眺める学生たちの記念写真があり、耳鼻科外来で教授が患者を診察する様子を、一言も聞き逃すまいとまわりで見ているポリクリや、手術を術衣で観察する様子など、専門性の高い教育環境がよく分かる。今の医学生の卒業写真にあるようなふざけた写真は一枚もない。時代といえばそれまでだが、倫理性の高い医師を養成する教師たちの、人間性もまた高かったのだろうと思う(今は相当低くなっていると感じるのは私だけだろうか…)。

 海軍の写真には、第一種軍装冬服、第三種軍装の二種類を着た父の姿がある。第一種軍装冬服とは、いわゆるネービーブルーの軍服だ。海軍の軍服は陸軍に比べてスマートだから、当時の女性の憧れだったようだ。これを着て軍刀を下げた姿はなかなかのものだ。戦線が逼迫していたため、軍医の養成も急がされていた。そのために、大学医学部を早く卒業させられたようだ。当時は卒業と同時に医学博士を取ることが勧奨されていたようで、学位論文の製作も急がされていたという。そのために、同期の中で「日本一早く博士論文が通った」と自慢していた。
 卒業と同時に、海軍の軍事訓練のために江田島に送られ、神奈川県の戸塚に出来た海軍軍医学校で、さらに軍事専門領域の研修を受けた。ここでの同期生は「戸塚一期」という特別な絆を持ったようだ。戦後になっても、この絆は強く結ばれていて、毎年「戸塚一期会」の集まりを続けていた。当時在った軍医学校の跡地がファミリーレストランになっているのだが、そこに頼み込んで石碑を建てたことがあった。何も関わりのない人達には無縁の石碑で、迷惑な石くれかもしれないが、熱い青春時代を過ごした土に、風に、空に、愛着を持って懐かしんでいたに違いない。
 その後、父は、日本のかつて軍医であった医師たちの集まりである「櫻医会」の会長となった。現在の海上自衛隊と合同で、旧アメリカ海軍の軍医達との交歓会を企画したこともあった。懐古趣味といわれればそうなのだが、温故知新という文字通り、歴史を共有する仲間とともに何回も何回も自分の生きざまを振り返り、日本という国の行く末にその遺伝子を繋げていこうという気持ちが大いにあったのだと思う。ただ、それを若い官僚やリーダー達が理解しなかった。

 その後終戦を迎え、ゼロ式戦闘機を水上艇に改造した飛行機を使って特攻隊を編成した部隊にいた父は、祖父にもらった軍刀と軍からもらったピストルと、部隊全員が自決できるようにと国が軍医に持たせていた青酸カリ一瓶を持って、必死になって四国から信州の実家まで帰京する。
 一介の医師に戻った父は、旧国鉄の給付を受けて、長野県中込町の診療所、新潟県糸魚川の診療所長をした。その後東北大学医学部時代にお世話になった恩師、黒川利雄先生の口利きで、町立浪岡病院院長に若干33歳で赴任する。設計の段階から関わった、当時では先進的な病院が竣工する。この新聞にあるように、赤字を減らして黒字転換させるために、若き院長としての苦労は並々で はなかったようだ。母にいわせると「毎日病院の職員を連れて来てはご馳走しろという。病院の看護婦も大勢連れて来るし、小さい乳飲み子を三人も抱えて、本当に嫌だった」という。一度は、何かの宴会の帰りに飲んだくれてモーニング姿で雪の中に倒れていて、「あのままだったら死んでいた」ということもあったようだ。若くして病院トップに成り上がった父が、新入職員達をどうにかして一体感をもったチームに仕立て上げなければという焦りがあったのだと思う。昔は、偉い人が下々の前で碎けた様子を見せる事、下々に大盤振る舞いをして飲み食いさせる事、「まあまあどうぞ一杯」というお酌を断らない事、そして最後に上手に酔っぱらう事が出来れば、人物と評された。父は、院長として、その精一杯の努力を重ねたのだろうと思う。

 しかし、戦後は共産党が各地の自治体で力を持ち始めていて、町立病院に対抗して組合セクトの病院を建てることになった。この「右派と左派」の政治的な勢力争いに巻き込まれた父は、ある事件に遭遇する。
 雪が降り積もるある日の夕刻、馬そりに乗って往診に行く途中で、何者かに襲撃された。どこからともなく飛んできた、石の飛礫(つぶて)が馬に当たったのだ。ヒヒーン!と飛び上がった馬を御者が抑えられずに、暖を取るためにと用意してくれた火鉢もろとも馬そりがひっくり返ったという。「もう少しで大火傷を負うところだった」と、何回もその時の事を繰り返していたから、その時は相当の恐怖を味わったらしい。
 次女の美智子が浪岡で生まれ、子供が三人になった父は、「今度は子供たちが危ない」と直感的に思ったようだ。その時から、浪岡を出て東京の友人の所へ身を寄せることを考えていたという。父に言わせると「着の身着のまま夜逃げした」というのだが、母に言わせると、「急に辞めることになった院長先生を慕って、患者さんや職員が国鉄の駅までたくさん見送りに来ていた」という。「先生、辞めないで」と嘆願書を持って来た患者さんもいたという。最後は、旗を降り、汽車を追いかけて田んぼを走る町の人達がいた。陸奥(みちのく)の人々の惜別の情はかくも深いものなのだ。

 東京都世田谷区若林に、中学生の時からの親友の堀江さんという方がいて、小さな診療所を作っていた。連絡を取り合っていた堀江さんと父は、「東京に出るからには、一旗揚げよう」と、第一医院という名前の診療所をたくさん作ってチェーン展開したいと思っていたようだ。それで、若林の第一医院を父が、堀江さんはまた別の所で開業するというので、とりあえず神津康雄家一家は転居前の堀江さんの家に同居することになった。
 この頃は、冷蔵庫もテレビもない。ハエ取り紙は開くとらせん状の醤油色の紙にノリが付いたもの。それに付かないハエを、今度はハエ叩きで叩き落とすのが子供たちの遊びであり役割の一つだった。勉強机を買ってもらう前は、リンゴ箱に新聞紙を貼ったみすぼらしい空き箱の上が宿題をする場所だった。
 35歳の若手開業医としての父は、持ち前の馬力で働きに働いた。結果はすぐに付いて来て、多くの患者さんから信頼を得て、流行りの開業医になった。この頃は国民皆保険以前であって、殆どが自費診療だったから、診療の終わり頃に会計を〆ると、「上着のポケット一杯に千円札があふれた」という。

(9月号に続く)

2013.08.01 掲載 (C)LinkStaff

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