神津 仁 院長

神津 仁 院長
1999年 世田谷区医師会副会長就任
2000年 世田谷区医師会内科医会会長就任
2003年 日本臨床内科医会理事就任
2004年 日本医師会代議員就任
2006年 NPO法人全国在宅医療推進協会理事長就任
2009年 昭和大学客員教授就任


1950年 長野県生まれ、幼少より世田谷区在住。
1977年 日本大学医学部卒(学生時代はヨット部主将、
運動部主将会議議長、学生会会長)
第一内科入局後、1980年神経学教室へ。
医局長・病棟医長・教育医長を長年勤める。
1988年 米国留学(ハーネマン大学:フェロー、ルイジアナ州立大学:インストラクター)
1991年 特定医療法人 佐々木病院内科部長就任。
1993年 神津内科クリニック開業。

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「父の『お別れの会』その一部始終」Part Ⅰ

 5月号で書いたように、父の突然の死は、残された家族の生活を一変させた。公職の多かった父だったから、知己の範囲も広かった。家族での密葬は、父と母の親族を集めてしめやかに行ったが、社会的なお別れの会を催さなければ多方面からその要請が来るだろうことは予想できたので、密葬が終わるとすぐにその準備に取り掛かかることにした。
 最初は7月頃に開催しようと考えていたが、こうした会は早めに行うのが定石だとのアドバイスを受けて、日にちを5月29日に決めた。これは、会場である水交会の全館を借り切ることの出来る日にちで、準備期間が十分取れる日を選んだためだ。


 密葬が終わった後の1週間は、日常診療と、父の残した手帳に書いてある予定をキャンセルするのにあたふたと過ぎて行った。父が主宰をしたり、会の発案者であったりすることが多く、会議や催しを、父なしでは出来ないものもあって、それぞれの事務局やホテル、会館などに問い合わせるのに時間がかかった。問い合わせて、誰が予約を取ったかを聞いて、その方の所に電話を入れる。まだ父の訃報を口外する時期ではなかったので、特別に理由を告げずに用件だけを済ませるという事の繰り返しを何日か続けた。ちょうど4月の終わりからは5月の連休に重なって、多少の息抜きが出来たものの、連絡先もお休みに入って、中途半端に物事が先に進まない、という状況だった。水交会は、以前大学のヨット部で追い出しコンパを開かせてもらったことがある。また、次男の成人のお祝いにも使わせてもらったこともあるので大体の見当はついていたが、それも10年以上も前の事なので、確認をするために5月4日のみどりの日(休日)に現場調査に行ってみた。



 もちろん、休日の水交会は閉館していて、人の気配もなかった。庭を眺めると、婚礼の一団が池の上にかかる橋の上を渡っていた。雅楽の吹奏がついて、平安絵巻を見るかのような穏やかでゆっくりとした時間が流れていた。これなら大丈夫、良い会が開けるだろうと確信した。
 連休明けの7日に早速水交会に連絡すると、10日の金曜日の昼に来館して良いとのことだった。昼休みの時間にタクシーで水交会へ。事務局長の本多さん、副支配人の首藤さんに会って、これこれ云々、海軍軍医中尉であった父が、櫻医会(存命する旧帝国海軍すべての軍医の集まり)の会長であり、水交会の理事を務めていたことなど、なぜ水交会を「お別れの会」の会場として選んだかを縷々説明をさせて頂いた。事務局長の本多さんは大変理解を示して下さって、協力して下さる旨快諾を頂いた。ただ、東郷会館という結婚式場が同じ敷地内にあるため、お焼香で線香臭くなることは避けてもらいたい、喪服での参列は控えてもらいたい、という制約を頂いた。もちろん、お焼香でなく献花という形を取れば良いことだし、葬儀でもないから平服での参加を皆さんにお願いすることも問題ないと判断し、これらの制約を快く受けることにした。



 館内を見せて頂くと、パーティションで三つに区切られた大広間と、30~40人が入る日本間、それに一番奥に6~7人の洋個室が一つで、計3部屋全室を借りられることが分かった。奥の個室は住職の着替えのための部屋、和室は歓談のために長くいたいという方や、家族・親族の控室代わりに使ったらよさそうだ。ラッパ手が来てくれるなら、テラスを使うと良いかもしれないと事務局長の本多さんがアドバイスしてくれた。一時間ほど意見交換をして、その日は午後診があるので、またタクシーでとんぼ返りすることになった。


 10日に顔見世をしてから、東都典範の醍醐さんと連絡を取ると、12日の日曜日に館内を見せて頂けることになったという。私もそれに同行することにした。東急本店に車を駐車してカスタマーサービスに寄ると、3時間券をもらえる。最近家内に教わって味をしめた。今回もこのパターンで車を置き、水交会まで歩いて行った。
 距離は2~3kmでwalkingにちょうど良い距離なのだ。TOKYU HANDSからひと山越えて、渋谷消防署の通りに出る。JR原宿駅の前を通り、細い裏道を抜けて明治通りに出るのだが、最近の原宿は裏道の細い通りまで店がたくさんあって、一軒一軒に観光客や見物客がたくさん出入りしている、アリの巣のような状態になっている。特に、女性用の品物が大半で、男性用の商品は10%にも満たない。竹下通りはその典型で、外国人も多く、カメラをぶら下げてナップザックを背中に背負ってぶらぶらと歩いている。年配の男性といえば、観光客か、娘にねだられて田舎から出てきたお父さんしかいない。その中で、先を急ぐ色黒のおじさんである私は、まるで異空間に紛れ込んだように浮いた存在であっただろうと思う。
 明治通りに出ると、東郷会館の出口が手前に見えて、その100m先に水交会の入り口がある。守衛に挨拶をして境内に入ると、5月の強い紫外線に晒されて、額に汗が噴き出してきた。風はずいぶんと強くて、爽やかな5月の空気が爽快だ。2時という約束だったから、ちょうどに館内に入ると、醍醐さんはもうすでにあちこちを採寸して回っていた。「先生、汗びっしょりですよ」と首藤さんが声をかけてくれて、紙タオルを何本か持って来てくれた。
「このパーティションを半分残して、遺品やパネルを飾るようにしたらどうかと考えているのですか」と醍醐さんが提案してくれた部分を、iPad2で撮影して、書画ソフトで写真の上に図を展開してみた。


「そこは、4枚でなくて、3枚にならないかな」というと、「パーティションの固定金具が偶数になっています、4枚でないと」とのこと。「じゃあその線でいきましょう」と私。
 こうして、どこに献花を頂いた方々の名前を表示する掲示板を置くか、遺品を展示する台やパネルをどこに配置するかなど、様々に決めていった。こういう時には、バーチャルイメージを作れるIT機器は便利だ。雨が降ったら、テントを少し多めに展開することなど、副支配人の首藤さんもこの企画に協力を惜しまない姿勢を示してくれた。


 父が軍医中尉で、櫻医会会長をしていたことは以前書いたが、子供の頃から海軍式敬礼を兄妹そろってやらされたり、「総員起床5分前!」で起こされたり、酒を飲んで興が乗れば「貴様と俺とは、同期の桜」と兄妹全員で歌わされたりしていた。終戦を聞いたその日に、隊の裏山に登って、竹藪の竹を日本刀で切りまくったことを、父は良く話していた。戦争に負けた悔しさなのだろうか、あるいは日本のために軍人として働くことが出来なかった不甲斐なさ、憤怒を抑えるためだっただろうか。軍国主義の日本にあって、ピストルと日本刀を持った若い将校は、皆同じ思いを抱いたのだろう。戦後処理のために軍が解隊される時に、今まで一兵卒を「入魂」と称して殴りに殴った将校たちは、徽章を剥ぎ取られ、隊員の前に引きずり出され並ばされて、今までの倍返しで一人一人の隊員に殴られたと聞いた。父は軍医として隊員に慕われていたからそれはなかったが、価値観が驚天動地で大きく転換したこの時に、父の精神状態がどう変わったか、愛国のために死に向かっていたエネルギーを、今度はどう使ったら良いのか、深く迷い、何かにそれをぶつけたかったのかもしれない。そんな父を、海軍の弔ラッパで送ってあげたい、とそう思った。


「今の自衛隊は、公式行事以外平時に隊員を出すことは、ちょっと出来ないかもしれませんね」と事務局長の本多さんが説明してくれたが、何とか出てもらえる人を探そうと、いろいろと伝手を介して探しては見たが、なかなか見つからなかった。結局、水交会が持っていたCDの中から、「国の鎮」「悲しみの譜」の二曲を献奏することになった。


 インターネットで「お別れの会」と入れて探すと、いろいろと出てくる。学校の学長や会社の創設者のような方々が多く、主催はその学校なり、会社なりが行うものが殆どで、私のように「息子が父に」お別れの会を主催するというのはあまりなさそうだった。
 この準備をしている時に、よく「主催はどちらが?」と聞かれることがあった。恐らく、父が所属していたいろいろな団体や医師会がおやりになるのでは?と思っている方々が多かったと思う。そうした意味では、私の本領である「独創性」「originality, creativity」が、大いに発揮された会でもあったといえるかもしれない。


 海軍時代は弔ラッパで、旧制高校時代は寮歌で送ってあげること。大学時代は、同窓会である萩友会から、東北大学総長に感謝状で表彰して頂きたい。内科医として長くその組織化に携わった日本臨床内科医会からも感謝状を頂きたいと、その意思を伝えながら、この会の準備を進めていった。とにかく、急に逝ったものだから、残された資料から、父の交際範囲を推定し、どなたが最も近しい方だったのか、お世話になった、あるいはお世話をさせて頂いた方々だったのか、連絡をさせてもらいながら、父の一生にお付き合いくださった現在存命する方々の「群像」彫刻を作るがごとく、トルソーに粘土を付け、ヘラで削るという作業を、繰り返しくり返し行った一か月間だった。


 幸い、皆さんが心を一つにして協力して下さったことや、お願いした来賓の方々が、事前にスケジュールを調整して頂けたことなど、29日に向けて大きなエネルギーが収斂していったことが会の成功につながった。医師会関係については、父が東京都医師会の広報担当常任理事の時に、一本釣りで日本医師会の常任理事に抜擢して頂いた、故武見太郎先生の息子さんである参議院議員武見敬三先生から弔辞を頂くことが決まった。


 事前に水交会を下見した時に、遺品をどこにどんな風に配置しようかと悩んでいたが、家族にいろいろと出してもらって選別していると、自然と頭の中にイメージが湧いてきて、漠然とではあるが大体の品目を仕分けして準備していたダンボール箱に収めることが出来た。


 珍しいものもいくつかあって、生まれた時に書いて頂いたのだろう、釋宗演老師の直筆の命名書が見つかった。「康雄」の「雄」は「ム」のところが「口」になっていて、何か特別の意味がありそうだが、今となってはそれも聞くことが出来ない。小学校の成績表があって、算数、社会は乙だったが、それ以外は甲。無論丙も丁もなかった。小学校の卒業証書、中学校・高等学校の卒業証書、東北大学の卒業証書もあって、おそらく母親である私の祖母てう(ちょうと読む)が、きちんと保管していてくれたに違いない。六男坊で、すぐ上の兄弟とは年齢がだいぶ離れていたから、随分と可愛がられたらしい。


 実家の「赤壁の家」は豪農・庄屋で、江戸時代に苗字帯刀を許されていた。百姓一揆の時に、斧で傷つけられた跡が、今でも屋敷の門に残されている。昔は種子島といわれる火縄銃が何丁かあって、母屋の中二階から敵を狙えるような、鉄砲狭間が切られていた。子供の頃は何気なく遊びながら眺めていた父の実家だったが、蜘蛛の巣が張り巡らされ、埃が積み重なった屋根裏部屋で、ふとうねるような400年以上の時空の重みを感じたのを覚えている。


(8月号に続く)

2013.07.01 掲載 (C)LinkStaff

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