神津 仁 院長

神津 仁 院長
1999年 世田谷区医師会副会長就任
2000年 世田谷区医師会内科医会会長就任
2003年 日本臨床内科医会理事就任
2004年 日本医師会代議員就任
2006年 NPO法人全国在宅医療推進協会理事長就任
2009年 昭和大学客員教授就任


1950年 長野県生まれ、幼少より世田谷区在住。
1977年 日本大学医学部卒(学生時代はヨット部主将、
運動部主将会議議長、学生会会長)
第一内科入局後、1980年神経学教室へ。
医局長・病棟医長・教育医長を長年勤める。
1988年 米国留学(ハーネマン大学:フェロー、ルイジアナ州立大学:インストラクター)
1991年 特定医療法人 佐々木病院内科部長就任。
1993年 神津内科クリニック開業。

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「夏にはいろいろなことが起きる~松村光芳先生とのこと~」

 夏風邪といえば、プール熱に代表されるようなアデノウィルス感染が定番と思うのだが、今年の夏は「咽頭結膜熱」といわれるアデノウィルス感染の症状をあまり見なかった。2009年の夏には新型インフルエンザが流行した。暑い夏にマスクをするから、眼鏡が曇って困ったことを思い出す。その感覚があるから、高熱を出す患者を診ると、すわインフルエンザかと「インフルエンザ簡易テスト」をやってみるのだが、陽性になる患者はいない。時々見るのは「成人百日咳」で、まだまだ市中では流行っているようだ。長引く咳、咳き込んで夜も眠れない、という患者がいたら、是非百日咳抗体価を調べて欲しい。適切な指導と治療によって、感染の拡大を防ぐことが出来るからだ。国には、海外と同様に「青年用三種混合(Tdap)ワクチン」が早く使用出来るよう、さらに努力を重ねてもらいたいものだ。

 さて、8月3日から英国のHull York Medical Schoolの5年生が3人研修に来た。世田谷区若手医師の会の幹事をしてくれている松村光芳先生が、ボランティアで海外の学生を日本に受け入れる窓口をしていて、その活動の一環である。当初から、松村先生の出身校である昭和大学と松村先生が院長をしている奥沢病院とがホストとなって学生を受け入れている。病院だけの実習では味気ないので、クリニックとして彼等を引き受けてもらえないか、と松村先生から頼まれた。松村先生はニュージーランドで小児外科のレジデントを経験し、とても親切にしてもらったから、その御礼にと海外の学生の地域医療実習を引き受けることにしたという。言葉で説明するのは簡単だが、実行するのは誰でもが出来ることではない。私もアメリカ留学で国際的な感覚を身につけていたし、言葉もそれほど不自由しないので、松村先生の依頼であれば、と毎年海外の学生を引き受けるようになった。私と同じようにアメリカでの暮らしが長く、英語が出来る外科医の島津盛一先生も研修生を引き受けてくれた。
 第一回の研修生受け入れは2003年、Manchester Universityの5年生のMark Ashton君だった。彼は柔道の有段者で、講道館で柔道をやるのが夢だったとのこと。とても優しい好青年だった。


 英国では、5年生が日本の6年生と同じ医学部の最終学年に該当する。この学年を終了すると医師になるのだが、卒後研修を受ける時に、病院勤務医になるのか、研究者になるのか、保健所などの公衆衛生の場で働くのか、あるいはcommunity doctorとして家庭医(general practitioner=GP)になるのかを決めなければならない。MarkはGPになることを決めていた。数年前に松村先生が彼の結婚式に呼ばれて英国に行ったと聞いた。今では立派なGPとして地域で活躍していることだろうと思う。
 第二回は2004年にカナダからPeter Pavlovich君が来た。

 大学はUniversity of British Columbia Medical Schoolで、学部の4年生。日本でいえば医学部の6年生だ。アメリカ、カナダでは、医学部のある大学に入る前にcollegeを出る。加えて社会的な活動をしたり、研究室の助手の経験をしたりすることが、医学部受験の時に有利な条件となる。Peterも物理系collegeを出ていて、学生の時にいろいろな奉仕活動をしていた。socialdanceが得意な好青年だ。彼は眼科志望だったが、カナダでは眼科医になるのは狭き門の様で、一年留年してまた翌年に日本に来ている。今は病理医としていろいろな病院で活躍していると聞いた。

 彼の日本贔屓は、愛車がNissan Skyline GTRというのでも分かる。一昨年久しぶりに日本に彼が来た時に旧交を温めることが出来た。私の愛艇に乗せて城ヶ島でマグロ寿司を食べたのは楽しい想い出だ。
 その後、香港の学生、フィリピンの学生、カップルで来たイギリスの学生、オーストラリアから来た学生など、様々な学生たちが来日して実習をしていった。このactivityが始まってから、もうそろそろ10年になる。最初のうちは松村先生のお知り合いの弁護士さんがhome stayの場を提供して下さって、そこから医療機関に通っていた。そのうちに昭和大学にある国際交流センターが受け皿になって、医学部構内から徒歩1分のstudent flatを宿泊施設として提供することが出来るようになった。本来、昭和大学の国際交流センターは、日本国外の他大学に昭和大学の学生を派遣して様々な経験をさせるということが目的の施設。ホームページの紹介文を見てみると「1年生には海外生活の体験と英語教育を中心に、2年生からはライフサイエンスのクラスに参加できるように、さらに高学年では臨床の現場で実習できるカリキュラムを組んでいます。2006年度より1年生に米国オレゴン州のポートランド州立大学での4週間のサマープログラムを提供しました。ホームステイは米国の生活を知る上で大きな意義があり、全学部から2006年23名、2007年13名が参加しました。専門科目の教育が本格化する2年生からは、長期休暇を利用して海外の提携校で基礎科目を中心としたライフサイエンスの勉強を学ぶ学生も増えています。ここでの海外生活体験記は、レポートとして毎年提出させています」とある。その逆に海外の学生を受け入れる、とは書いていないのだが、松村先生の趣旨に賛同して、支援をしてくれている。「理事会を通さないと…」などと、堅苦しいことは抜きにして協力してくれる昭和大学は素晴らしいパフォーマンスだ。今回も、国際交流センターの三浦さんがいろいろと準備を手伝ってくれた。

 実は、今回の英国のHull York Medical Schoolの5年生3人の受け入れに関しては、いささか従来とは勝手が違った。というのも、いつもは松村先生が大方の準備をして、私と島津先生はclinicサイドとして学生を一日か二日預かればよかった。時には学生を飲みに連れて行ったり、家に呼んでうどんを食べさせたり、海に連れて行って船に乗せたりと、お互いに国際交流の機会を楽しめばよかった。しかし、今回は松村先生が病に倒れた。たまたま撮った頭部MRIに影があって、それが良くないものだった。手術をして放射線をかけ、化学療法をするのだが、脳機能の低下が時折起こるために、今までやっていたような全体をorganizeすることが出来なくなったのだ。「学生教育に慣れた先生に是非お願いしたい」と電話を頂いて、事情が事情だけに引き受けることにした。それから、学生たちとのメールのやり取り、昭和大学との連絡という、新しい仕事が出来た。大学側が必要な書類(CVやID作成用の顔写真の提供、ワクチン接種記録など)を用意するのに学生とメールで連絡を取るのだが、時差が8~9時間あるのでレスポンスが遅く、学生の方は4年生の期末試験で忙しくて連絡が取りづらい。まったくの初対面だから、最初はメールのやり取りも控えめになっていた。そのうち慣れてきて、割合と気持ちが通じる文面になって来た。その中で、何日のいつの便で来るのか、だれがどこに迎えに行くのか、など細かい打ち合わせが必要になって、何回もメールのやり取りをした。いくつかのメールを紹介しよう。

 そんなこんなで、8月3日、Jessicaから電話が入った。
「これからリムジンバスに乗ります。午後2時頃に着く予定です」
と。無事着いたのだ。
「私のwifeが迎えに行くから、セルリアンタワーホテルで降りて待っていなさい」
と電話口で伝えて、家内に迎えに行ってもらった。
 よく聞くと、この便で日本に着いたのは2人で、ポルトガル人のJulioは5日に来るとのことだった。イギリス人が二人、ポルトガル人が一人の三人が今回の実習生だ。クリニックには三人揃ったところで6日に来てもらった。午前中はクリニックのオリエンテーションをして、昼ご飯に三軒茶屋のキャロットタワーにある「三崎港」という回転寿しに連れて行った。このために「Sushi English」という、寿司ネタを英語で書いたネット上の資料を渡した。young yellowtailはハマチ、salmon roeはイクラ。イクラは初めて食べた、と喜んでいる。Julioが美味しいと言ったのはクジラだった。寿司の皿が色とりどりなのは、色や柄によって値段が違い、最後に皿の色と柄を揃えることで計算が簡単になるのだと説明すると、感心していた。


 実は、松村先生と私は彼らが日本に来る前に、どこを実習先にしようかと相談をしていた。7月の終わり、暑い日差しの中、松村先生を入院先の病室に訪ねたのだが、短パンにTシャツでリラックスした感じで私を迎えてくれて、思いのほか元気で安心した。昭和大学では連年通り小児外科病棟での見学をすることになっているとのこと。しかし、それ以上のmanagementは今の松村先生には難しいと分かった。「漢字が出て来なくて、変な文字になってしまうんです。英語はまったく問題ないんですが」と戸惑いを隠さない。それでは、八王子の永生病院と原宿の甲状腺疾患専門病院の伊藤病院にお願いをしてみましょう、とその場で永生病院の安藤高朗先生と伊藤病院の伊藤公一先生に電話を入れた。二人とも、一つ返事で快諾してくれた。永生病院は地域の中核的な医療・介護施設として、素晴らしい活動をしている。介護老人保険施設、認知症グループホーム、地域リハビリテーション支援センター、また一般救急対応まで、地域のニードに応じて展開する日本型の地域医療密着型病院を是非見て欲しいと思った。また、甲状腺疾患に特化した高機能型の市中病院が日本にあることを知って、彼らがどう考えるかも聞いてみたかった。

 さて、彼らはこの実習の間に京都へ行き、スカイツリーで買い物をし、富士山に登った。日本を楽しんで、日本の医療文化の一端に触れ、Fareastの国の人達を知ることによって、今後の医師の人生がそれまでと違ったものになったら、それはそれで良い経験なのだろうと思う。

 松村先生が作ったこんなに素晴らしい国際交流の場が、今年を最後に、なくなってしまうかもしれない。というのも、松村先生の病状がcriticalだからだ。この文を書いている今も、化学療法で叩かれて辛い思いをしているに違いない。しかし、そんな自分を医師の目で客観的に見ている、素晴らしいpersonalityがいる。松村先生の意思を、どのように繋いでいったら良いのだろうか。今こうしてHull York Medical Schoolの学生の面倒見ながらも思い悩んでいる。この夏、いろいろなことが起きて、空気は次第に秋の匂いを漂わせている。若い燃えるような命と引き換えに、終末に向かっていく命とその輝きを見つめながら。

 松村先生が、9月21日に講演会をすることになった。「めぐろパーシモンホール」だ。住所は東京都目黒区八雲1-1-1(TEL:03-5701-2924)。開場18時30分、開演は19時の予定だ。200人は入れるホールなので、読者が何人か来て頂いても大丈夫だと思う。以下、松村先生自身のアッピール文を載せておきたい。
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☆ 55歳、医師, ミュージシャン, ブロガー, marc の講演会です。
 生来健康で超元気。毎日を全速力で走っていた(はず)だった僕は、ある日突然脳腫瘍(神経膠芽腫)と診断され、自分の死と直面することになりました。
 近い将来の不可避な運命として、自分の死が迫ってきているとしたら、あなたはどうしますか?どんなことを考え、何をするでしょう?
 僕が今何を感じ、どんなことを考えているかを、できる限り自分の言葉で皆さんに伝えることが出来れば、と考えています。
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2012.09.01 掲載 (C)LinkStaff

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