神津 仁 院長

神津 仁 院長
1999年 世田谷区医師会副会長就任
2000年 世田谷区医師会内科医会会長就任
2003年 日本臨床内科医会理事就任
2004年 日本医師会代議員就任
2006年 NPO法人全国在宅医療推進協会理事長就任
2009年 昭和大学客員教授就任


1950年 長野県生まれ、幼少より世田谷区在住。
1977年 日本大学医学部卒(学生時代はヨット部主将、
運動部主将会議議長、学生会会長)
第一内科入局後、1980年神経学教室へ。
医局長・病棟医長・教育医長を長年勤める。
1988年 米国留学(ハーネマン大学:フェロー、ルイジアナ州立大学:インストラクター)
1991年 特定医療法人 佐々木病院内科部長就任。
1993年 神津内科クリニック開業。

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「繋がっている過去とともに」

 今年の夏は暑そうだ。7月に梅雨前線が停滞し、九州・四国地方に大雨を降らせた。雨が少ないといっては騒ぎ、雨が多いといっては騒ぐのはマスコミの常だが、夏は暑いし冬は寒いに決まっている。どんな天災が起こっても常に日本人は立ち上がってきたし、これからもそうあり続けるだろう。それが何百万年もの間繰り返されてきた人間の営みなのだ。

 人は時々過去に遭遇する。あるいは意識的にそこに帰っていく。私が大学時代にヨット部だった事は度々書いてきた。キャプテンになった初めての春合宿はよく晴れて、毎日朝早く起きて夜は日没まで練習した。昼休みが15分程しかなくて、下級生が音を上げて集団脱走したこともあった。よっぽど体力があったのか精神力があったのか分からないが、そのおかげで東日本医科学生体育大会(東医体)ヨット部門の準優勝、私自身は個人優勝に輝いた。すべてシングルで3-2-2-1の成績は当時としては医学部レベルではないといわれた。

 8月3~5日は今年の東医体が行われる日程になっている。最近の医学部入学生は40%程度が女子だから、ヨット部門といえども女子学生の精鋭達が海の上を華麗に、凛々しく滑る時代だ。診療をしていても、各大学の0B、OGは落ち着かない数日を過ごす事になる。

 最近では殆どが江ノ島ヨットハーバーで試合が行われるが、我々の時代は各大学が持ち回りで夫々が練習を行っている海域で試合を行うのがお決まりだった。当時は学生がヨットを輸送する手段はなく、あっても多額の費用を要するので、その地域にあるヨットを大会出場校の数だけ用意して貸し出しをした。もちろん、良く走る船もそうでないオンボロの船もある。そのため、各大学間で船の優劣で勝敗に影響がないように、用意した船とスパーを抽選にして、セールは自前で持っていくといった工夫をしていた。東北大学が主管校だった時には仙台の松島まで各大学とも遠征して合宿をしたものだ。関東でも、葉山と江ノ島では海域が違う。我々は千葉の館山湾で合宿していたので、学生の6年間を過ごし、その後もOBとして何年も訪れていたから、私にとっては第二の故郷だ。先日久しぶりにその故郷を訪れてみようと思った。
 レインボーブリッジを通って東京湾を渡ると、すぐに木更津になる。以前はなかった館山道は快適な自動車道になっていて、1時間半ほどで館山の町に入った。海岸は広く、海は昔のように平らで「鏡が浦」という名のそのままの海が広がっていた。我々が毎日、昼にはヨットを舫で乗り降りしていた北条桟橋が、昔の通りにあって感激した。館山城址公園には天守閣が造られていて、そこから眺める館山湾は、昔のまま。過去と現在と、そして未来がこんな風に交差して、いつまでも人を受け入れる環境であって欲しいと、そんな感慨を持った旅行だった。

------------ 閑話休題 -----------
 来年の5月で神津内科クリニックは開業20周年を迎える。開業当初に、医学書院のJIMという雑誌で対談をした時に、千葉のW先生が「開業13年で3万人を超えました」と話されていて、自分はどれくらい経ったらその数に到達するのだろうかと、気の遠くなるような思いで聞いていた事を思い出す。もちろん、W先生は他に医師を二人雇っていて、内科・小児科を標榜しているので、私のような一人で開業している神経内科専門医とは患者の層が違う事は分かっていたが、それでも「なんと素晴らしい地域医療担当医なのだろう」とW先生を敬意の念を持って見ていた。その私のクリニックもつい最近、新患登録が13,000人を超えた。口コミで「神津先生に診てもらったら?といわれた」という人、インターネットのホームページを見て「神経内科医に診察を受けたいと思って」と来院する人が増えている。

 地方のクリニックは、一つの無床診療所がカバーする診療区域が広い。地区医師会が主導しているためか、棲み分けも上手く行っているようだ。毎日100人の患者を診ているという医師も少なくない。私が開業している世田谷では、人口密度こそ多いが、医療機関の数も多く、新規医師会員の開業に際して振り分けが上手く行っていない。開業医が少なくて、診療報酬もかなり見込めるような1990年代はもう遥か昔になってしまった。今は政府による度重なる診療報酬の「理由なき削減」によって、通常の保険診療(自費診療なし)では医師の働きと努力に見合うだけの収入は得られなくなってしまった。独禁法違反ととられるような医師会による開業規制はもちろん出来ないが、競合するために医業収入が期待出来ないような、あるいはそのために減収となって医業が継続不能になってしまうような開業については、よくよく関係者のコンセンサスをとる必要があるのだと思う。

 さて、5月某日に私の大先輩に当るK先生から、同窓会総会の時に推薦講演が毎年行われるのだが、来年是非君を推薦したいから履歴書を書くように、と電話がきた。履歴書は昭和大学の客員教授になる時に書いたのが最後で、さて、どんな風に書こうかと送られてきた書類を見てしばし考えた。しかし、自分の過去をそうやって書面に落とし込んでいくと、そうだった、この時はこんなことがあったのだと、いろいろと感慨深いものがわき上がって来る。
 もう35年も前の事だが、大学5年生、6年生の時に翠心会という学生自治会の会長をしていた。かつての学生運動のあおりを食って、どの大学でも学生自治会は学校側からパージされていた頃の事だ。東大紛争、日大紛争によって、大学教授は監禁されたり縛られたり罵倒されたりしていたから、その首謀者達はその反動として留学させられたり医局に入れなかったりした。フランス語の教科書で勉強して教授連中を小馬鹿にしていた優秀な学生もその頃いたようだが、皆その後の進路を断たれてしまった。そのため、都市部の有名大学病院に残れなかった学生運動家達が、地方の国保病院や無名校の無給医局員になって隠れた。地方で在宅医療に先進的に取り組んだ医師達の中には、こうした学生運動の活動家達が多いのは、社会派医師として、自らの理念と理想を地方の恵まれない農民や漁民達、工場生産者達の医療環境の改善に注いだためなのだ。

 我々は、こうした学生運動世代から数年遅れて大学に入った。日大医学部の本館に入るために、有刺鉄線のバリケードの中、IDを警備員に見せて入ったのを覚えている。4年生の時には、薬理のS教授が突然怒りだして、お前らみたいなクズに何が出来るんだ!と教壇の椅子を叩きつけて学生たちを驚かせた。このS教授には、後日6年生の学部卒業試験の時に電話で「学生活動をした親玉のお前は卒業させないからな!」と恐喝まがいの叱咤激励(?)を受けたことがあった。実際にはすれすれではあったが無事卒業出来てほっとした記憶がある。それほど、数年経っても怒りが湧いてくる程自尊心をズタズタにされたのだと思うと、革命というのもなかなか難しいものだと思う。話は違うが、先日中国出身の患者さんが、特定の人(欧米外資系の営業マンだった人)に自分でも理解しがたい怒りを感じて自制困難になってしまう、と診療に来られた。エゴグラムを取ると、FCとACが極端に低い。自由な心、抑制的な自我が低い事が今の状態ですと話すと、「先生も知っていると思いますが、我々の子どもの頃は中国の文化大革命の時でした。知識人は監獄に入れられて、私の両親もひどい目にあったのです、だから、自由な心、受け入れる心は少ないのです」と。我々は、そうした過去を引きずりながら、現在を生きているのだ。

 学生運動で痛い目に合った教授達が生き残っていたから、一時学生自治会は動く事が出来ず、学生会室は無人のまま放置されていた。私は5年生の時に運動部主将会議の議長をしていたのだが、先輩達のたっての願いで学生会を再び復興させようという事になった。それで、運動部主将会議と文化部主将会議を合体させ、それに各学年委員を1年生から6年生まで正副2名ずつ12名を合わせて、実質的な学生会を作り上げた。そして、名前を「翠心会」と命名して、以前の学生運動をする学生自治会とは一線を画した全学生の会であると主張し、教授会で承認された。こうして再び、学生自身が作る「学生による、学生のための会」が出来た。翠心会の翠心とは、赤十字や緑十字が医療を表すように、翠の心つまり医療の心を持ちながら医学生として学生時代を真摯に生きていくために活動するのだと、そう宣言したことになる。名付け親である私がその初代の翠心会会長になった。いまから思うと、運動部主将会議の仲間と、一年生から6年生のそれぞれの教室に出向いて、集会の類いを何回も開き、「君と君とが委員になってくれ」と頼みというか半分は強制的に参加してもらったことを、よくやったなと今更ながら感心する。学生の仲間というのは素晴らしいものだ。そんなことが評価されたのか、卒業式の時には「同窓会長賞」を受けた。

 そんなことで、履歴書の「賞罰」の項に「同窓会長賞表彰」と書き込んだのだが、この一言を書き込んだ時に、今までここに書いたいろいろな事が脳裏に浮かんできたのだった。そうそう、医局の何年目かの時に、日本大学が若手研究者に与える「学術奨励賞」という賞も頂いた事がある。開業してからはしばらく受賞からは遠ざかっていたが、日本臨床内科医会が毎年開いている学術大会で、二度大会長表彰を受けた。一回目は「慢性硬膜下血腫とparkinsonism」という演題で、2004年9月第18回日本臨床内科医学会で頂いた。発表する前に座長の先生から「先生、終わっても帰らないでいて下さいね」といわれて、何の事かと内心ドキドキしていたが、岡山の後楽園を開放しての学会の懇親会場で表彰して頂いて大変感激した。二回目はその5年後の2009年10月。「フェノフィブラートの肝機能値異常はどのくらい続くのか?」の演題で、大宮で行われた第23回日本臨床内科医学会の時に頂いた。この時はすでに学会プログラムに印刷してあったので、ドキドキはなかったが、表彰に値する発表をしなければというプレッシャーが多少あった。今回の推薦講演に値したのは、「神津内科クリニックにおける地域医療研修:第42回日本医学教育学会(東京、都市センターホテル)、7月31日、2010年」「診療情報提供のやり取りから見た地域医療連携の現状:第24回日本臨床内科医学会(金沢)、10月10日、2010年」などの発表がポイントになったようだ。
 15~20分の講演時間なので、大した話は出来ないと思うが、この開業以来20年の歩みの中で、過去と現在を繋いで聴いて頂く先生方に印象的な話が出来たらと楽しみにしている。

2012.08.01 掲載 (C)LinkStaff

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