神津 仁 院長

神津 仁 院長
1999年 世田谷区医師会副会長就任
2000年 世田谷区医師会内科医会会長就任
2003年 日本臨床内科医会理事就任
2004年 日本医師会代議員就任
2006年 NPO法人全国在宅医療推進協会理事長就任
2009年 昭和大学客員教授就任


1950年 長野県生まれ、幼少より世田谷区在住。
1977年 日本大学医学部卒(学生時代はヨット部主将、
運動部主将会議議長、学生会会長)
第一内科入局後、1980年神経学教室へ。
医局長・病棟医長・教育医長を長年勤める。
1988年 米国留学(ハーネマン大学:フェロー、ルイジアナ州立大学:インストラクター)
1991年 特定医療法人 佐々木病院内科部長就任。
1993年 神津内科クリニック開業。

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「医療環境の基礎を支える科学者達の思考の柔軟性」

 イグノーベル賞という賞がある。Wikipediaによれば、
「イグノーベル賞 (Ig Nobel Prize) とは、『人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究』に対して与えられる賞である。イグノーベルの名は、ノーベル賞に反語的な意味合いの接頭辞を加えたもじりである」と書いてある。1991年創設以来すでに10年を超える歴史を刻んできたが、この中に日本人が多くノミネートされ、受賞している事は興味深い。その主なものを拾ってみると以下の如くである。
 1992年:「足の匂いの原因となる化学物質の特定」という研究に対して、医学賞が資生堂研究員達に贈られている。
 1995年:「ハトを訓練してピカソの絵とモネの絵を区別させることに成功したこと」に対して、心理学賞が慶応大学の研究チームに贈られた。
 1997年:『たまごっち』により、数百万人分の労働時間を仮想ペットの飼育に費やさせたことに対して、経済学賞がウィズ社およびバンダイ社に贈られた。
 2002年:犬語翻訳機「バウリンガル」の開発によって、ヒトとイヌに平和と調和をもたらした業績に対して、平和賞がタカラ社と獣医師と音響研究所に贈られた。
 これらの他に、合計16の賞が日本人に贈られている。もちろん、欧米の受賞者は多いのだが、日本人の思考の柔軟性も欧米に負けないユニークなものといえよう。こうした発想の柔軟性がいろいろな分野で有機的に関係性を持つと、化学反応を起こしてまた新しいものが生まれる。面白いものだ。

 粘菌といえば南方熊楠が思い出される。彼は天才的な科学者で、ネイチャー誌に掲載された論文の数は約50報、日本人最高記録保持者となっている。彼は、明治39年に発布された神社合祀令によって、里山が日本全国で無惨に壊されて行く事について反対し、帝国議会で大演説をした。自然を大切にするというエコロジー思想を日本で初めて政治的matterとして取り上げた科学者でもある。

 粘菌は植物的性質を併せ持つ生物だ。その粘菌を使って、都市の交通網の最も効率的なあり方を検証した研究が、2010年のイグノーベル賞交通計画賞を獲った。2008年には「単細胞生物の真正粘菌にパズルを解く能力があったことを発見したことに対して」認知科学賞がこのグループに贈られている。この光る粘菌の不思議さに心躍る思いをするのは私のみではないだろう。

 実は、世界的な研究成果や実用化した科学技術の陰には、日本人研究者が多くいるのだ。
 昔は高コレステロール血症、すなわち高脂血症と呼ばれていた疾患は、今は脂質代謝異常症と呼ばれているが、この病気の治療に最も貢献した薬はスタチンと呼ばれる薬だ。この薬が使われるようになって、脂質代謝異常症の治療は飛躍的に進歩した。そして、この薬の創薬は日本人の手による。
 2008年の共同通信の記事はこんな風に伝えている。

 「米国で最も権威がある医学賞で、ノーベル賞の登竜門ともいわれる『ラスカー賞』の今年の受賞者に、血中のコレステロール値を下げる薬『スタチン』を発見した、バイオファーム研究所(東京)の遠藤章所長(74)ら5人が選ばれた。米アルバート・アンド・メアリー・ラスカー財団が14日発表した。授賞式は26日にニューヨークで行われる。
 遠藤氏は秋田県出身で東北大農学部卒。製薬会社三共(現第一三共)の研究員時代に6,000種のカビやキノコを調べ、1973年に青カビの培養液中から、体内でのコレステロール合成を調整する酵素を阻害する物質『コンパクチン(メバスタチン)』を発見。ニワトリや犬の実験で、血中のコレステロールを劇的に低下させる効果があることを突き止めた。
 世界の製薬会社がコンパクチンと同系列の化合物を次々と開発、高脂血症の治療薬として製品化しており、スタチンと総称されている。世界中で3,000万人を超える患者に使われているという」
売上高は2005年で約 2 兆 8,000 億円に上る。

 有効な血圧治療薬開発の歴史は、ニフェジピンから始まるといってよい。それまでは万人に効く降圧薬はなかった。そのため効果のある薬があれば、「血圧の薬は一生飲みなさい」(それがあなたの生命予後のために必要だから)といわれた。その後1957年には降圧利尿薬クロロチアジドが開発される。そしてバイエル社のBossertとVaterが、冠血管拡張薬の探索研究の中から、Bay a 1040(ニフェジピン)を見出したのが1966年。その後、Bay a 1040の研究を依頼された橋本虎六(当時、東北大学薬理学教授)が中心となり、基礎と臨床の連携によってこの薬の冠循環促進効果と確実な治療効果が短期間のうちに明らかにされた。つまり、ニフェジピンはドイツ生まれの日本育ちの薬なのだ。

  超音波エコー診断装置も日本人が作った素晴らしい発明だ。この技術は、新潟医科大学卒で順天堂医院の助手であった和賀井敏夫医師が、大学の権威主義と教授会の侮蔑に近い無視と否定に抵抗して出来たものだった。また、太平洋戦争に負けた心の傷と劣等感を次第にはね除けるようにして、一緒に作り上げた日本の工学系技術者たちの協力があっての発明だ。大学の学者からつま弾きにされた和賀井医師に、昭和31年に突然ボストンで開かれる国際音響学会から発表するようにと招待状が届く。これを千載一遇のチャンスとしてアメリカの学会で発表するために、飛行機代を出せない彼は船医となって渡米した。いったい彼を突き動かした勇気はどこから出たのだろうか。若さというエネルギーに圧倒される。結果として、アメリカの学会は和賀井医師の発表に大絶賛を与え、エコーは現在の診療にはなくてはならないものになった。現在和賀井敏夫氏は順天堂大学名誉教授になっている。

※この物語は、「創意は無限なり」という題でプロジェクトXで放映された。

「時代は戦後間もない昭和25年。きっかけを作ったのは、順天堂医院、脳外科で働く新米医師・和賀井敏夫だった。和賀井は、造船所では超音波を使い船体内部の傷を検査していることを知り、超音波で脳腫瘍を発見できないか、と考える。そこに戦中、兵器を作っていた日本無線の技術者たちが参集。プロジェクトは始まった。体内の診断に革命をもたらした『エコー』の開発物語である」

http://ebook.hmv.co.jp/detail/index/bid/17579/otkey/dummy/

 CTといえば、身体の横断面を頭から爪先まで作る事の出来る優れた診断機器だ。最近では3D-CTとして内蔵をすべて取り出した如く見られる。この方法を用いて死因究明を行おうという動きも出てきたAi(Autopsy imaging:オートプシー・イメージング)。実は、このX線による断層写真を作るという技術を研究し、その発展に大きく寄与したのが高橋信次氏だったことはあまり知られていない。東北帝国大学医学部を卒業し、弘前大学教授、名古屋大学教授、浜松医科大学副学長、愛知県がんセンター総長を務めた。X線廻転(回転)撮影法・X線多色撮影法・X線拡大撮影法を開発し、放射線診断学に寄与した。スウェーデン王立科学アカデミーゴールドメダル受賞。そして、今我々は、こんな画像を当たり前に見ている。

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 私が大学にいた頃(30~40年前)、現在「認知症」と呼ばれている疾患は「痴呆症」と呼ばれていた。当時は欧米に多いとされていた初老期痴呆のAlzheimer diseaseは日本には少なくて、Vascular dementia(脳血管性痴呆)が多いとされていた。これらの患者達は死に至らないまでも、片麻痺や失語症などの強い脳障害を起こして社会生活が出来なくなる人が多くいた。今は「treatable dementia」の鑑別が、認知症診療の最初に行われる。しかし、当時は正常圧水頭症の概念もまだなく、歩行が出来なくなった痴呆症患者はいわゆる「老人病院」に、徘徊や反社会的行動をとる痴呆患者は精神病院に入院させられて社会から隔離された。
 しかし、1997年、杉本八郎氏によって発明されたドネペジルがアメリカで発売されると状況は一変する。日本での発売は1999年。この薬剤の出現で認知症診療は劇的に変わった。ドネペジルは今や世界で3,300億円以上を稼ぐドル箱薬品になっている。

 杉本氏は工業高校を卒業してエーザイに入社。降圧薬のデタントールを合成したのは氏だ。こうした創薬のバックグラウンドを持ってドネペジルを合成する。その切っ掛けを京都大学大学院薬学研究科創薬神経科学講座客員教授として学生にこのように語っている。 「30代の中頃に、創薬のターケットは脳神経だろうということで循環器からその領域に替えたんです。もう一つは、私の母親が痴呆症になったので。母が痴呆になった時、私が母の所に行くと、『あんたさん誰ですか?』って聞くんです。で、「僕の名前は八郎」っていうと、母が、『私の息子にも八郎っていう子供がいます。よろしくお願いします』これが親子の会話。これがこたえたんですね。僕は九人兄妹の八番目の子供なので八郎。九人兄弟で戦後の昭和20年以降のとても貧しい時代に母が苦労して育ててくれたんです。そういう母が痴呆症になったんでなんとか母に恩返しをしたいって痴呆の薬の研究を始めたんです」
 しかし、ご本人は詩人か小説家になりたいと考えていたらしい。剣道に打ち込み、錬士七段の日本の侍は、また、思考の柔軟な心と親孝行という美徳とを併せ持つ科学者でもある。

2011.11.01.掲載 (C)LinkStaff

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