神津 仁 院長

神津 仁 院長
1999年 世田谷区医師会副会長就任
2000年 世田谷区医師会内科医会会長就任
2003年 日本臨床内科医会理事就任
2004年 日本医師会代議員就任
2006年 NPO法人全国在宅医療推進協会理事長就任
2009年 昭和大学客員教授就任


1950年 長野県生まれ、幼少より世田谷区在住。
1977年 日本大学医学部卒(学生時代はヨット部主将、
運動部主将会議議長、学生会会長)
第一内科入局後、1980年神経学教室へ。
医局長・病棟医長・教育医長を長年勤める。
1988年 米国留学(ハーネマン大学:フェロー、ルイジアナ州立大学:インストラクター)
1991年 特定医療法人 佐々木病院内科部長就任。
1993年 神津内科クリニック開業。

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「夢はかなうもの ~Holiday seasonに南の島を訪れたこと~」

 以前話したことがあるかもしれないが、高校生の時に将来行ってみたい所を三つ考えていた。私の学級担任が恩師の和角仁先生で、古文を担当していたので、知らず知らずに漢文を読むのが好きになっていた。高校生の発想は単純で、中国へ行ってみたい、それも万里の長城の上に立ってみたい、というのが一つの望みになった。
 我々が子供の頃は、アメリカ製のテレビドラマが全盛時代だった。もちろん、日本のテレビ局には予算も技術もないから、歌謡曲や「チロリン村とクルミの木」という人形劇などでお茶を濁していた。この頃に、各局はテレビ先進国のアメリカから番組を購入していろいろな番組を放映していた。

 スーパーマン、ローハイド、ララミー牧場、ベン・ケーシー、ルーシーショーなど、素晴らしいコンテンツが四角い画面の中から、戦争の敗者たる日本人の心に投げつけられていた。それは、日本にはない輝く光、聞いたこともない音楽、そして底抜けに明るいアメリカ文化の幻影だった。

 後からいろいろと事実を見聞きすれば、アメリカ文化の裏にあるダークサイドの存在や、ハリウッドという特殊な社会にあって人間としての尊厳を傷つけられ、アルコールとドラッグでボロボロになった者たちの栄光と退廃が渦巻いていたのだと分かるのだが、その当時は純粋にアメリカが好きだった。大学浪人をして、挫折の中で見つけたジョン・コルトレーンのJazzもまたアメリカ文化であり、いつかアメリカに住みたいと思っていた。それが二つ目の望みだった。
 三つ目が、今回Holiday seasonに旅行したバリ島だ。私の父親が映画好きで、封切り映画を封切館の指定席で観るのが我が家の通例行事だった。シネマスコープが来た時の、あの座席から飛び出るような躍動感を今でも覚えている。素晴らしい映画は数々あったが、その中で私を魅了した映画が「南太平洋(South Pacific)」だった。Wikipediaによれば、最初は1949年初演のブロードウェイミュージカルだったようだ。ジェームズ・ミッチナーの小説『南太平洋物語』(Tales of the South Pacific)が原作で、作曲はリチャード・ロジャース、脚本・作詞はオスカー・ハマースタイン2世。1950年のトニー賞を受賞している。

 あらすじはこんな風だ。「太平洋戦争の真最中、南太平洋のある島が舞台。ここに海兵隊のジョセフ・ケーブル中尉が任務を帯びてやってきたところからストーリーは始まる。戦争の悲劇の中、対日作戦に協力するフランス出身の農園主エミール・デ・ベックと島の海軍の看護婦ネリー・フォーブッシュ、ジョセフと島の土産物屋メリーの娘ライアットとの恋が描かれる」。今このあらすじを読んでも、実際どんな映画だったかは思い出せない。しかし、子供心に残ったのは、ヤシの葉が風に吹かれて揺れている海辺のシーンで、現地の老婦人が「Bali Hi」を歌う不思議な安堵感のある美しいシーンだった。その時に、いつかこんな美しい島へ行ってみたいと思った。

 夢はかなうものだ。中国へは、ある医療機器メーカーのお抱え講師で20年以上前に訪れる機会があった。自分の出番が終わった後に、私の希望で万里の長城に上らせてもらうことになった。運転手付きの古いベンツで北京からlong drive。やっと入場口までたどり着くと、女坂と男坂があるが、どちらへ行きたいかといわれた。入って左が女坂、右が男坂だ。大体の観光客は歩く時間が短くて勾配が緩い女坂に行く。私はせっかくだからと男坂を選んだ。数百メートル毎に見張り砦があり、多くの観光客がいて行き来が大変だ。しかし、せっかくここまで来たからには行ける最端まで行ってやろうと考えて、1-2時間の行程を黙々と歩いていった。最後の砦までくる人は少なくて、10人程がそれぞれの達成感を確かめながら、万里の長城を吹き渡る風に流した汗を乾かしていた。


 ふとその砦のレンガ一つ一つを見ると、人の名前や傘マーク、いついつここに来たぞ、○○ちゃん愛しとるで~、と中国語で彫られているではないか。やはり中国人も人の子、世界中の観光地でよく目にするあの落書き状態がそこにあった。当然、私もその日を書き記し、レンガとレンガの間に一円玉を埋めてきた。私の息子や孫達が、もしここに来たら、父、あるいは祖父がここにいたのだという証拠を残したいと、そんなロマンを持ったのは、そこにある二千年の時の重さを感じたからかもしれない。あれ以来北京には行っていないが、家内が昨年友人と一緒に私の足跡を辿ってきてくれた。その写真や話を聞くと、20年の歳月は中国を大分変えたようだ。もう、我々が漢文で習った杜甫や李白の時代の空気に触ることが出来なくなったのは淋しい気がする。

 アメリカには1988年から二年半ほど研究者として家族共々住むことになって、二つ目の夢がかなった。次は三つ目の夢、バリ島だ。アメリカ留学と時間は前後するのだが、その時は急にやってきた。
 大学病院の神経学教室に所属して、教育、臨床、研究と多忙な中、何とか博士論文を書き上げて大学から医学博士号を頂いた。その後にその研究成果を「アジア・オセアニア神経学会」で発表してはどうかということになった。国際学会での発表は初めてだったが、何しろ学会開催地がインドネシアのバリ島だということで、千載一遇のチャンスとばかりに飛びついた。当時の主任教授が診ていた患者さんの父親がパプアニューギニアの日本国大使であったので、その大使公邸にお邪魔してからバリ島に行こうということになった。どこかで手に入れた世界周遊航空券で、フィリピンのマニラ、インドネシアのジャカルタ、ジョグジャカルタのボロブドゥル (Borobudur)遺跡(792年頃完成された大乗仏教の寺院遺跡群)を巡って、パプアニューギニアのポートモレスビーに入った。

 大使公邸は町から少し離れたところにあって、二階建ての瀟洒な建物だった。もちろんそれなりの広さと格式のある建物で、我々のゲストルームもシャワー付きの8畳間ほどの広さの部屋がいくつかある中の一つだった。ここに3-4日宿泊した記憶がある。朝は衛兵が玄関のポールに国旗掲揚をし、夜にはそれを降ろすのを見ると、やはり国家的な施設なのだと分かる。当時は右肩上がりの高度経済成長期であったために、日本人は「エコノミック・アニマル」「ワークホリック」などと言われていた。

 大使の仕事はというと、「日本人でもそんなに働き蜂ばかりではないということを世界の人々に見せないといけない」から、毎日遊びまわることだと大使は語っていた。それで、50代だったと思うが、「50の手習いでウィンドサーフィンを始めたんですよ」と。必ず毎朝海岸に出てセーリングするのが日課だという、真っ黒に日焼けした体に短パンとアロハの大使はとても大使だとは思えない人だった。夕方になると、サンデッキに出てまず夕陽を浴びてビールを飲むのが日課だ。我々もそれに付き合って美味しいビールを何杯も飲ませていただいた。夕食は日本から連れてきた日本食職人の豪華な日本食だった。その時に食した刺身も天ぷらも味噌汁も、大変美味しかったと記憶している。外国での日本食はまた格別なのだ。その職人さんには、朝の4時頃から密林の中に入り、極彩色の極楽鳥を見に連れて行ってもらった。「見られないこともあるんです」と言われたが、幸運なことに極楽鳥に出会うことが出来た。しかし、高い木の上にいるので望遠鏡で一瞬確認できたといった経験だったが、大変感激した覚えがある。市場では「Betelnut」という石灰と一緒に噛むと赤くなる、日本ではビンロウと呼ばれるヤシ科の実が売られていて、みんなで噛んでみた。

 島の人々は殆どの人がこれを嗜む。これを噛むと空腹感が薄れ、やや高揚した感じになることが現地の人々に好まれる理由らしい。パプアニューギニアの子供たちは、このBetelnutにタバコ喫煙をする。街角で4-5歳の子供が片手で鼻くそをほじりながら煙草を吸っていたのを見て驚いたが、今はもうさすがにそんなことはないだろうと思う。

 バリ島(インドネシア語:Pulau Bali)は、首都ジャカルタのあるジャワ島のすぐ東側に位置する島だ。首都はデンパサール。周辺の諸島と共に、第一級地方自治体 (Daerah Tingkat I) であるバリ州を構成し、人口は約400万人。バリ・ヒンドゥーに根ざした独特の文化を持つ島だが、1990年代以降、イスラム教徒の移民流入が目立つようになっている。

 学会会場はThe Intercontinental Hotelだった。そのコテージに教授と二人で宿泊し、学会発表が終わるとプールで一泳ぎ出来た。プールサイドに歩いて行くと色白の日本人がいた。話しかけると「僕も発表が終わってリラックスしている所なんです」と答えてくれた。それが今でも懇意にしている、当時は慈恵医大勤務医の浅野先生だった。「これからスキューバダイビングに行く予定なのですが、先生も行きませんか?」ということで、バリ島の海に潜ることになった。浅野先生はこの時の一本が大変気に入って、友人とともに日本人向けのスキューバダイビングの出来る宿を作ってしまった。こういうのを「病膏肓に入る」というのだろう。私といえば、水流の早いバリの海でバランスを取るのが難しくて四苦八苦していた。中学生の時から久しぶりのダイビングだったから無理もないのだが。バリは暑いという先入観があるが、実は信仰の山とされるアグン山は標高 3,142 m、キンタマーニ高原で知られるバトゥール山は標高 1,717 mの高さがある。海辺でくつろぐ服装でキンタマーニまで行ってひどい目にあった。何しろ高原まで行くと気温は10℃程度しかない。寒さで震える思いをした。

 あれから20年以上が経ち、今回二回目のバリ島旅行に行くことになった。中学・高校の友人である戸塚君がトラベルパートナーズという旅行会社を経営していて、ガルーダ航空のチケットが取れるという。Holiday seasonにどこへも行かないのでは英気が養えないと、急遽日程を組んだ。行きの直行便は取れなかったので、ジャカルタでtransitすることになった。久しぶりのインドネシアだ。空港内に響くコーランの声を聞きながら、辛甘いカレーを食す。「WiFiが使えない」と連れ合いがiPad2を抱えてつぶやく。結婚35年になる記念の旅行だ。一回目には見られなかったケチャダンスも見たい、ゆっくりと波打ち際で本を読んで、プールサイドでコロナビールやGin & Tonicを飲みたい。
高校生の頃の望みとはちょっと違った大人の旅行になってしまった。

2011.09.01.掲載 (C)LinkStaff

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