ドクタープロフィール
神津 仁 院長
 
1999年 世田谷区医師会副会長就任
2000年 世田谷区医師会内科医会会長就任
2003年 日本臨床内科医会理事就任
2004年 日本医師会代議員就任
2006年 NPO法人全国在宅医療推進協会理事長就任
2009年 昭和大学客員教授就任


1950年 長野県生まれ、幼少より世田谷区在住。
1977年 日本大学医学部卒(学生時代はヨット部主将、運動部主将会議議長、学生会会長)
      第一内科入局後、1980年神経学教室へ。医局長・病棟医長・教育医長を長年勤める。
1988年 米国留学(ハーネマン大学:フェロー、ルイジアナ州立大学:インストラクター)
1991年 特定医療法人 佐々木病院内科部長就任。
1993年 神津内科クリニック開業。
2008年12月号
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現場からの医療改革推進協議会


 11月8日、9日と、「現場からの医療改革推進協議会」が主催する第三回シンポジウムが、東京大学医科学研究所大講堂で行なわれた。この協議会の目的は以下のようなものだ。
「医療は医学を中心としたいくつかの社会のシステムを包含するため、医療現場における諸問題を解決するためには、医学関係のみならず、政策、メディア、教育等の異なる分野の有機的な連携が必須である。本シンポジウムでは、医療現場における問題事例を取り上げ、医療現場の主人公である患者とそれを直接支える医療スタッフたちが、現場の視点から具体的な問題提起を行い、その適切な解決策を議論する機会と場を創出することを目的とする」
 そのために、多くのメディアや教育関係者、議員、医師、コ・メディカルスタッフなどが出席していた。私は、このシンポジウムの主催者である「東京大学医科学研究所先端医療社会コミュニケーションシステム社会連携研究部門」准教授の上昌広先生から、「医師の自律」というテーマでシンポジストとして参加するように依頼を受け、参加してきた。

 

 11月8日は土曜日で診療があるために出席できなかったが、9日の日曜日の午後は早めに出席して他の講演を聞くことが出来た。とにかく、日本中の多くの知識人、キーパーソンをよくこれだけ集めたなと感心するような講演会で、上先生のfixer(紛争の調停者)としての面目躍如たるものがある。民主党の鈴木寛国会議員がシンポジウムの司会を勤め、この難しい「医師の自律」というテーマをうまく纏めて頂いた。
 ここでは、特に医療事故調査委員会のあり方に関しての議論がやり取りされ、後日のメディア報道で「医師の自律的処分」などとテーマがすりかえられるほど、「医療事故」や法律論議に終始した。しかし、医療というのはアプリオリに法律体系がつくられる前から存在し、法の上にある倫理的な規範を自らの職業倫理としているのであるから、そこから離れて自由でなければ医療が行なえないことは自明の理だ。戦争のさなかに自軍だけでなく、敵軍をも治療することが許されるし、緊急の際に刃物で身体を切り刻んでも傷害罪には問われない。この古くから社会的に許容されてきた職業に対して、今の社会はどのように振舞いたいというのだろうか。
 1980年代からのアメリカが、コンシューマリズムの上に立った患者の要求を法外に受け入れた結果、医療訴訟時代という暗雲に社会ごと飲み込まれてしまったのはついこの間のことだ。産婦人科の医師の医療訴訟が増えて、保険料がうなぎ登りに上昇し、保険を掛ける事が出来ない産婦人科医が次々と辞めていった。ついには保険会社そのものが潰れていく。こうした悪循環がアメリカで起こっていたことを知って、なぜもっとうまく立ち振る舞えないのだろうか? この国の舵取りはあまりにも下手くそだ。私だったら、もっとうまくこの日本丸を風に向かって走らせることが出来ると思えるほどだ。
 私が、このシンポジウムで話をする前に考えたのは、我々が今世田谷の地でやっている医療そのものが、自律した医師にしか出来ない医療なのではないか、ということだった。だから、我々の活動そのものを提示することがそのまま「医師の自律」という命題を目に見え、手で触れるように具現化するのだと。Semanticな方法としては、それが一番だということで発表を行なった。しかし、それを良く理解できない聴衆が多かったのには驚いたが、まあ、日本はそんなものだろう。とりあえず、発表の主旨を以下に載せて、報告とする。

 

 私は「世田谷区若手医師の会」という、自主的な地域における診療連携サポート活動を平成6年からお世話させて頂いている。この活動の端緒は次のようなものであった。
 開業当初、右も左も分からない新しい地域で、地域医師会員が登録している標榜科目や会員名簿からはその医師のバックラウンドは皆目分からず、目の前の患者についてどの医師と連携を取ったら最も良い医療が提供できるのかわからなかったからだ。こうした情報が、地区医師会にあるのかと期待したが、その頃の医師会には文書作成のワープロだけで、パーソナルコンピュータの一台すらなかった。そこで、それなら自分たちでその情報をつくり上げたらよい、ということで「Setagaya-ku young physicians information society=SYPIS=世田谷区若手医師の会」を立ち上げたのである。

 

目的:30歳代から40歳代までの若手医師の間のコミュニケーションづくり
この会は、若手の先生方の勉強のお手伝いをし、情報交換の場を作り、若い開業医が自由に発言し、自由な発想で次の世代を構築していく、そしてそれが我々の医療のレベルを上げ、ひいては患者さんにその技術を還元することが出来る、ということを目的としたものであり、それ以外のなにものでもありません(commercial useではありません)。この情報ネットワークの輪が、大きく広く広がっていくことを期待してやみません。
設立:平成6年11月
会員資格:30歳代から49歳までの医師。世田谷区内の若手開業医、またはそれに準ずる医師で入会を希望するもの。前向きに勉強したいと思っている方、friendshipのある入会希望の方が多く集うことを期待しています。入会金は無料です。
会の目的:①30歳代から40歳代までの先生方のコミュニケーションづくり、②他科診療の実際的知識の吸収、勉強、③情報収集の「場」を提供する
方法:2種類。①夕食を取りながらの講演会、②オープンクリニック

 

 明日からでも連携の取れる、権威的でない若く優秀な講師を招いて行う講演会は67回。会員のクリニックを訪れて、院長の医師としての経歴、専門性、医療に対する信条などを聞き、院内をくまなく見学させて頂くオープンクリニックは37回を数える。その詳細はホームページに載せてあるので参照されたい。https://www.kozu-mclinic.jp/

 

 平成9年9月9日、「臓器移植法論議への疑問、~立法にもたれかかる医~」という題で、三菱化学生命科学研究所生命科学研究室室長の米本昌平先生に講演をお願いした。たまたま毎日新聞に米本先生の論文が出ていたことから、是非にと直接お電話でしたところ、快く引き受けて下さった。その時に指摘されたことは次のようなことだった。
「いかに委員会の答申を参考にするとはいえ、全くの素人集団である『立法府』の議員が法案としての『脳死』を決めてしまうということを、日本の医師達はどうしてだまって見ているのか理解に苦しむ。
 先進国といわれる国の中で、こんな議論をしているのは日本だけである。自律できない医師集団は、まるで『立法にもたれかかっている』としか見えない。Medical professionがしっかりしていれば、もともとこんな論議をすること自体無意味なのである。
  日本の戦後の医療システムを一人でつくったといわれるGHQのサモス大佐は、どういうわけかこの『medical profession』の考え方を入れたシステム、すなわち『強制参加の公的職能身分集団』を日本にはつくらなかった。これがどうも後々尾を引いて、現在の医療不信に繋がっているようである。こう考えると、日本の制度的・構造的欠陥が矯正されない限り、日本の医療はいつまでも二流のままであろう。
 こうしたことが分かっていたのは一人、武見太郎であったようだ。武見は、慶応大学医学部の医局支配体制を嫌って野に下った医師の一人であるが、日本の医療体制のルールづくりを大変な危機意識をもって推進していった。 ルールは、正当性(legitimacy)、権威(authority)、能力(capability)があって初めてつくられるものだが、武見にはあったこの三つは、現在は厚生省に移ってしまった。本来は二流の官僚組織であった厚生省にこれだけやられっぱなしになっている日本医師会の能力、権威、正当性のなさをどうにかしなければ、医師が社会的に尊敬される職業であり続けることは不可能であろう」

 

 その後、世田谷区医師会で介護保険の導入をめぐって討論が行われた際に、その当時の執行部に任せていては現状を乗り切れないと理解した我々は、理事・医師会長選挙に世田谷区若手医師の会のメンバーを立てて戦った。その結果、80票以上の差をつけて前執行部は下野した。それは、若手医師による地域医師会での「革命」といってもよかった。この時私は49歳で副会長となり、新しく出来た介護保険の下でつくられた、世田谷区介護認定審査会会長(医師会、歯科医師会、薬剤師会、社会福祉関係諸団体を含めた)となった。
 多忙であったが、多くの改革を平均年齢52歳の医師会理事たちは行い、現在の世田谷区医師会活動の新しい基準を作り上げた。それまでは「理事になったら医業はおろそかになっても当然だ、収入が半減しても当然だ」とされていた通過儀礼的理事像を変えた。我々は、理事になっても医師としての活動を大きく制限することはなかった。医業経営は順調で、私の収入も右肩上がりのままだった。そのためには、ITを活用しよう、FAX理事会を増やそう、メーリングリストを活用しよう、とITリテラシーを高めていった。移動理事会というお遊び理事会を止め、理事の交通費も削減した。
 我々にとって初めての医師会運営であったから、医師会事務局の働きとは何かを知るために、スタッフに業務の棚卸をしてもらい、長い大きな業務リストをつくった。加えて、日本能率協会によるインテーク調査を行い、他の社会と比較して医師会というところの効率性を評価した。その評価は最悪だった。特定の会員しか投稿しない、今までの文芸雑誌的な医師会雑誌を改めて、情報誌として活用することを会誌編集委員会に提案した。そのためには、従来のような豪華な装丁を止め、毎月up dateなものを載せてほしい。正月号が4月に出るような怠慢な慣行を止めて欲しい、と提案した。また、世田谷区民に対して、医師会活動の正当性を訴えるための広報誌を新しく発行することにした。大学や病院の医師が専門領域で講演をしに医師会にこられるのは良いが、医師会員一人一人のもつ臨床的ノウハウを発表することも大切。そして、区民に対してかかりつけの医師が日ごろ苦心を重ねながら臨床医学を研鑽していることを公にして、見て頂こう。そんな思いで「世田谷区医師会医学会」を立ち上げた。
 最初はその意義に懐疑的で反対の多かったこの医学会も、もう8回、8年目を迎える。今は、地域医師会を中心とした診療連携の大きな中心となっている。参加する医療機関も増え、毎年40題以上の演題が集まり、世田谷区とその周辺の国立病院が3か所、公立病院4か所、4つの大学病院、その他拠点となる総合病院7施設を数え、その院長、副院長、管理部長などと顔の見える医療連携が可能となった。

 

 現場の医師である我々は今、国の医療費削減政策によって苦しんでいる。開業後15年で、いろいろな医療機器が耐用年数を迎えようとしている。設備のリニューアルや更新、医業を続けるのに必要なもろもろの再生産費用、自分なりの人生を楽しむための余裕は、今すでに枯れかけている。自律した医師は、より良い医療に懸ける多くの努力が無駄であると理解したら、医療から自らを遠ざけていくかもしれない。

左から木ノ元直樹弁護士、土屋了介国立がんセンター中央病院院長、ドクター神津、内田健夫日本医師会常任理事、小松秀樹虎の門病院泌尿器科部長

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