ドクタープロフィール
神津 仁 院長
神津院長は昭和52年に日本大学医学部を卒業後、同大学第一内科に入局され、その後、神経学教室が新設されると同時に同教室へ移られました。医局長、病棟医長、教育医長を長年勤められ、昭和63年、アメリカのハーネマン大学およびルイジアナ州立大学へ留学。帰国後、特定医療法人佐々木病院(内科部長)を経て、平成5年に神津内科クリニックを開業された。神津院長の活動は多岐にわたり、その動向は常に注目されている。
2008年3月号 『心について』
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『心について』

 

 今日は低気圧が強い風をともなって関東地方を横切っているらしく、軒下に掛けてある風鈴が季節外れの乾いた音色を立てている。雨が降らないだけ良いか、と空を見上げて納得する。というのも、今日は私のクリニックに金曜日午前中、研修方々アルバイトに来ているI先生の結婚式があるからだ。

 

 I先生は才気煥発、新進気鋭という言葉がそのまま歩いているような若い優秀な医師である。ある有名な政治家の息子さんの家庭教師をしていたことや医師国家試験対策のスペシャリストでもあったというから、世事に疎いボーッとした普通の若手医師とはちょっと違っている。政治家や医療界、スポーツ、芸能界の裏事情にも通じていて、診察の合間に話す話題に事欠かない。
 こうした若い優秀な勤務医が、私のような熟練工の医療技術を習いたいと言ってくれるのは幸せなことだと思う。私の尊敬する千葉大学名誉教授の平山恵造先生が、伝承する技術としての医療技術について「伝授と伝受」という言葉を残されているが、授ける人の心とそれを受ける人の心があってのことだ。神津内科クリニックで研修した若い医師が、日本のどこかで私の技術を継承してくれていると思うと嬉しい。
 2007年12月に大学から来ていた研修医のU先生も、心の優しい優秀な若手医師だった。暮、正月を挟んでの研修だったから、仕事納めの大掃除も手伝うことになった。院内の器械や器具はもちろんのこと、大きな観葉植物の葉一枚一枚の上にあるほこりを丁寧に拭うその熱心な働きぶりは賞賛に値する。患者さんにも同じようにやさしく接するU先生はスタッフの心をしっかりと掴んでいた。
 ある金曜日のことだった。この日はI先生のアルバイト日で、U先生が胸のX線写真を撮影する時にI先生に挨拶に来た。
U先生「おはようございます。研修医のUです、宜しくお願いします」
I先生「Iです、宜しくお願いします」
その後すぐに看護師の船山さんが診察室に顔を出して、
Ns.「I先生、先生の田舎はどこですか?」
I先生「千葉ですけど」
という会話があった。後で聞いてみると、U先生はI先生のことを、どこかで見たことがある、昔の友人ではないか?と思って、処置室でNs.と話していたようだ。午前の診療が終わって休憩に入った時に、全てが明らかになった。
U先生「どっかで見た顔だと思っていたんだけれど、まさか、医学部に行って、神津先生のところに研修に来ていたなんて信じられないよ」
I先生「ホントだね、眼鏡かけてたから分からなかった。ICUに行ってモテモテだって風の便りに聞いていたけど、医学部に行ったって、知らなかったよ」
 どうも、2人は隣町同士で中学生まで同じ学習塾で勉強し、U先生は都会の私立高校へ、I先生は県立高校へ行き、その後は音信不通になっていたようだ。その2人が、神津内科クリニックの診察室で顔を合わせ、一緒に働くという確率とはどのくらいなのだろうか? この偶然に、どんな神様の大御心が働いていたのだろうか。
 先日NHKの「トップランナー」という番組を見ていて、若手写真家の瀧本幹也氏が写真を撮る時には「自分の心を送る」と言っていたが、写真家の心が込められると素晴らしい写真になるのだと理解した。しかし、心という掴み所のないものがどのように作用し、あるいは作用することなく形に表れるのか、その時に知りたいと思った。

 

 実は、もう一つ驚くべきことが起こっていた。石原慎太郎氏といえば都知事だが、同時に芥川賞作家であったことは良く知られている。しかし、ヨット乗りであることは我々のような海仲間でないと知らないかもしれない。日本の外洋ヨットレースの草分けであり、ご自身が持っていたコンテッサ号はトランスパシフィックヨットレース(アメリカ西海岸からハワイまでの太平洋を航海する)という世界的な外洋レースに参加し、日本のヨットセーラー達に大きな自信と勇気を与えた。そのコンテッサ号の舵を握っていたのが慶応大学ヨット部OBの福吉信夫氏だ。
 福吉氏はその後、エスビー食品が社会貢献事業として運営していた「エスビースポーツクラブ」のヨットスクール校長をすることになる。私はたまたま佐島マリーナとご縁があり、当時外洋クルーザーを舫いでいたことから、このエスビーヨットスクールに2人の息子を入れた。練習の際には、お手伝い方々福吉氏の繰るレスキューボートにもよく乗っていた。

先日、父が石原氏の近著「オンリー・イエスタディ」という本を買って、「ヨットの話ばかりだから読んでみたら」と持ってきた。石原さんがお付き合いをしたユニークな人々の話の中に福吉氏の話があった。石原さんが最も心を許せる友人である福吉氏(獣医くずれなのでジューイと呼んだ、とある)は、今脳卒中でリハビリに励んでいるのだが、その章に挿入されていた一葉の写真をよくよく見て驚いた。なんと、私の次男と私自身が映しこまれていたのだ。これはどんな偶然なのだろうか。どんな確率があればその一瞬のシャッターの開閉と今の自分という存在とがピッタリと重なることが出来るのだろうか。しかも、石原さんの本の中で、何万人という読者の目と心につながって。

 

 これらのことから、ここに存在する「心」というものについて考えざるを得なくなった。それから何日かして、ある夜、私の中に「解」が現れた。
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 私は心について考えている。もちろん、人間の心が原則なのだが、宇宙の中の心の存在というものを大きく捕らえてみると、こんなことが考えられるのではないか、と考えた。 心、我々が持っている整然とした心というものは、ある「かたまり」であり、ある「ルールによって存在するもの」のようだ。心が乱れるというのは、その整然としたあり方が不ぞろいになる、という意味なのだろう。
 つまり、123456789あるいは1231231231233453453453451010101010763763763763というつながりは整然としてルールのある存在であり、1824948162748836277132249というつながりはルールがなく乱れていて意味が無いものだから心の状態を形成することが出来ない。この意味からいうと、生きとし生けるものにはすべてに心がある、ということになる。無心、ということは、この信号が無い状態だ。しかし、何も考えず、何も思わないで座禅を組んでいても、しーんという音が聞こえる。この音は、生命自身が活動している音だと分かってきた。耳の中にある有毛細胞が電気的な活動をし、身体の全身の筋活動や血液の流れなどがその音源になっている。つまり、一見無心という状態になっても、さらに生命が存在することそのものが「心」として存在するのだ。
 では、「生きる」ということは何か。医学的にいうと、それはエネルギー代謝を行なうということとイコールである。動物にせよ植物にせよ、生きとし生けるものは自己の細胞を日々作り変えるために、外界から炭素、水素などの原子を常に摂取して排出している。つまり、一年前の細胞にある炭素と一年後に自己の細胞中にある炭素は異なるものであるので、存在そのものが変化しているわけだ。しかし、自己の中のルールが依然として存在するから、その存在のルールとしての心は変わらないでいるわけである。さらに、原子そのものも、あるルールで活動をしている。その意味では原子にも心があるといえるだろう。その原子は、宇宙の中にすべてちりばめられているために、宇宙そのものに心がある、ともいえる。

 

 人の心は形が無いのだが、存在としての形がある。色もなくそれぞれが無味無臭であるが、感じられるものなのだ。それは存在としてのルールがあるからだ。良い心は良いルールである。心乱れることの無い存在である。原子に返れば、それは全て良い心の中に治まるのだ。人の心は何故乱れるのか。それは、最も進化した存在であるから微細であり、壊れやすいものだからだ。これは仕方が無い。そういう存在としてあるものだから。それを「良きもの」とするために、常に形を整える必要があって、その努力が人間を人間らしくする力なのだろう。
 「輪廻」とは、つまり炭素などの「存在の繰り返し」のことを示している。生と死とは一つの形ある個のルールの中にあるが、実際には大きな「心の活動」そのものの一瞬の変化に過ぎない。しかし、その一瞬の変化は無くてはならないものとして与えられたかけがえの無い一瞬である。それは、宇宙の心の輝きである。その一瞬を有意義に生きることが人としての存在意義なのである。
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読者には、この大御心を感じることが出来るだろうか…。

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