ドクタープロフィール
ドクター神津
神津院長は昭和52年に日本大学医学部を卒業後、同大学第一内科に入局され、その後、神経学教室が新設されると同時に同教室へ移られました。医局長、病棟医長、教育医長を長年勤められ、昭和63年、アメリカのハーネマン大学およびルイジアナ州立大学へ留学。帰国後、特定医療法人佐々木病院(内科部長)を経て、平成5年に神津内科クリニックを開業された。神津院長の活動は多岐にわたり、その動向は常に注目されている。
2007年12月号 「永遠の青年たちのコンサート」
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 『永遠の青年たちのコンサート』

 

 銀座の街並みを久しぶりに歩いた。日比谷警察の隣にペニンシュラホテルが出来、以前は雑然としていた交通会館あたりに丸井が出来て綺麗になった。中心街にはアルマーニやブルガリの店など、高級有名店が軒を並べて人々の関心を呼び寄せている。400年前の世界には、人口100万人の都市はいくつもなかった。イギリスのロンドンと肩を並べて、日本の江戸が一二を争う世界的な大都市だった。その中心の銀座は、今もその粋を磨いているようだ。

 銀座に足を伸ばしたのは、世田谷区若手医師の会のメンバーである松村先生がコンサートに誘ってくれたからだ。実は、松村先生自身が「ハックルベリーフィン」というバンドを結成していて、そのライブが銀座で開かれたのだ。以前から、松村先生がライブ活動をしているという噂は耳にしていたが、今回初めてそのコンサートを聴きに行くことが出来た。「タクト」というライブハウスがそのコンサート会場で、昼12時から3時まで、たっぷりと楽しいステージに酔うことが出来た。ワンドリンク500円ということで、チケット代を合わせてもお釣りが来るほどの満足だった。会場内は禁煙で、音楽関係者には多少つらい時間だったかもしれないが、地下の会場の空気が汚染されず、着飾った女性たちのハイセンスな洋服に臭いタバコの煙が付くような失礼がなかったことは大変良かった。

地下に入る”TACT”の入り口
マークが新鮮な空気を吸いに出てきた

 ハックリベリーフィンは、中学校の同級生であったジョージとマーク(松村先生の通称)が結成したアマチュアバンドである。30年前に日本放送で「流れ星」という曲が流されて全国にその名が知られるようになった。その後メンバーは夫々の人生を歩み、演奏活動は長く休止していたが、ある時運命の糸に呼び寄せられるように再びバンドを結成することになったという。1972年から2004年という32年間の人生の年輪を重ね、なおかつ青年のような心を繋いでいるのは、音楽というピュアな旋律に身を任せることが出来るからだろう。ギターも歌もパーカッションも、五線譜の上にお互いの友情を乗せているのだろうと思う。羨ましい限りだ。

 今回のコンサートを仕切ったのは、鈴木一郎さんというミュージシャンだ。彼も50を超えているし、一緒に歌ったバンドメンバーも同世代。一曲歌うと息が切れるといっていたから、その気持ちはよく分かる。前座で激しいロックを「ダークホース」という二人組みの若者が、長髪を振り乱して陶酔するように歌い演奏してくれた。それを見て「俺だって昔はあれくらい髪があったんだ」と、禿げた頭を帽子で隠して羨ましそうに話す気持ちもよく分かった。老眼鏡をかけながら、歌詞を書いた譜面に目を落とすメンバーたちだが、かなりレベルの高いパフォーマンスを見せてくれた。自分たちも楽しみ、観客も楽しめるコミュニケーションは、おじさんバンドならではと思う。彼らがどんな仕事についている人たちなのか、興味のあるところだ。

 かくいう私も、実は今までの人生の中で何回かバンド演奏に参加している。今回のようなセミプロの人たちとではないが、練習の楽しさや宴の後の充実感のようなものをメンバーと一緒に共有したことがあった。そのルーツは幼い子供の頃に遡る。
 我々の時代、団塊の世代の少し後の世代だが、良家の子女はピアノやバイオリンを習うのが通例だった。ご多分に漏れず私も妹たちも親に強制的にバイオリンとピアノを習わせられた。ギーギーゴーゴー、とあの下手くそなバイオリンの音を思い出すと今でも恥ずかしい。弓が馬の毛で出来ている、と聞いてどんな馬がこの尻尾を持っていたのかと想像していた。弓に塗る蝋の臭いもトラウマになっている。私にはバイオリンの才能がなかったから、そこそこ通ってやめてしまった。妹たちが小学校に入ると、今度はピアノを習わせられた。学校から帰ると音楽大学の学生という女の先生が待っていて、壁の方を向いて並ばせられる。絶対音感の訓練である。先生の弾く音を聞いて、和音を構成する音をいい当てるのだ。これが結構難しい。兄妹の三人が平等に諮問されるから、間違ったら兄の沽券にかかわる。それがまた嫌だった。バイエルが終わる頃には、男の子としての遊びの方が忙しくて、ピアノの時間までに帰ってくることが出来なくなり、そのうちこれもやめてしまった。

 しかし、音楽が嫌いになったわけではなく、中学では音楽部に入ってトロンボーンとトランペットをやり始めたが、こちらの才能もなかった。ニニロッソの「夜明けのトランペット」という名曲があって、自分の家の屋根瓦に乗って夕日に向かって吹いていた。世田谷の田舎は住宅もまだ少なくて、中学生の吹く下手くそなトランペットに文句を言う人もいなかった。開業してから近所のおばさんが高血圧で受診し、「あの頃屋根に上ってよくラッパを吹いてましたね」といわれた時は赤面した。フォークソング全盛時代だった高校ではギターを弾いて自作の曲を歌っていたが、受験でこれも中途半端になった。大学に入って一年間はヨット部と軽音楽部の両方に入った。昔吹いていたといったらトランペットを担当することになった。半年後のコンサートでトランペットはスカスカと間抜けな音を出すだけだった。その後はヨット部の活動がメインとなって、軽音楽には足が遠のいた。主将になった年は、東日本医科学生体育大会で個人優勝、団体準優勝をして、音楽とはさらに疎遠になった。
 大学を卒業して医師になってから、後輩の医師が作ったバンドでフルートを担当することになった。昔の人は知っていると思うが、ピンキーとキラーズという当時大変人気のあったプロのグループのリーダーが教えに来てくれていた。六本木のライブハウスでコンサートがあり、プロの素晴らしいパフォーマンスの後に、ビートルズの「Yesterday」を歌った。若い医師のバンドだったから、若い美人の観客も多かった。眩しかった。

 埼玉県の東松山市民病院に出張していた時に、脳外科のT先生がバンドを作っていて、やはりフルートを担当することになった。忘年会の余興でミニコンサートをしたのだが、その時にはワイルドワンズの「思い出の渚」を歌った。フルート専用のマイクを買って、かなりジャズっぽく演奏したつもりだったが、酔った観客にはその良さは伝わらなかったと思う。
 開業してからは、時間とお金を無駄にする付き合いゴルフはやらずに、ゴルフに行ったと思って貯めたお金でクラリネットを買った。リード楽器は結構難しい。手入れも大変で、出して演奏すると仕舞うのが大変だ。そのうち箱から出すのが億劫でどこかお倉に入ったままになってしまった。

 医師会の副会長の職を終わってからは、理事会に出なくなった空き時間を無駄にしないようにと、昔やりたかったジャズピアノを習ったこともあった。ジャズピアニストの古川初穂氏が師匠だった。弟子や友人などが集まって宴会を開いた時に、弾いてみないかといわれて酔うままに弾いた曲は教わったばかりのブルースと「SATIN DOLL」だった。しかし、日常診療が多忙となり、日本医師会の代議員に選出されたことやNPO法人全国在宅医療推進協会の理事長になったりしたことで練習にもいけなくなった。
 いつの間にか、演奏者としての音楽からは疎遠になった。そう、今は聞く耳を持っただけでも良かったと思っている。永遠の青年たちのコンサートを。

左がマーク、右がジョージ
再結成した最初のアルバム
『Time Frame』

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