ドクタープロフィール
ドクター神津
神津院長は昭和52年に日本大学医学部を卒業後、同大学第一内科に入局され、その後、神経学教室が新設されると同時に同教室へ移られました。医局長、病棟医長、教育医長を長年勤められ、昭和63年、アメリカのハーネマン大学およびルイジアナ州立大学へ留学。帰国後、特定医療法人佐々木病院(内科部長)を経て、平成5年に神津内科クリニックを開業された。神津院長の活動は多岐にわたり、その動向は常に注目されている。
2006年10月号  『フィリピンとの人的国際交流を促進する』(Ⅰ)
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  『フィリピンとの人的国際交流を促進する』(I)

 「95% poor people and 5% rich, Philippine is still under development country」とEddyがアメリカ製(Dodge)の4WD車の中で説明してくれた。

 私が9月21日の午後成田を出発してマニラ空港へ着いたのは10時をまわっていた。今回は、私が理事長をしている国際ケア・エイド協会(ICAO)の仕事で、フィリピン側で働いているPhilippine International Care Aid Organization(PICAO)の理事たちとの会議、そして日本語学校や看護学校の視察を行うために出張したのだ。
 EddyはPhilippineサイドのホストの一人で、彼の奥さんは現フィリピン大統領のアロヨさんと友人関係にある、とのこと。お爺さんはアジア一の大富豪だったらしく、「He was like a Rockefeller.」と自慢していた。彼の自宅に招かれて3泊したのだが、その片鱗は今も残っている。

 夜のことであまり良くは分からなかったが、大きな応接室が4部屋、ホテルのスイートルームのようなゲストルームが5-6室。渋谷のセルリアンタワーホテルの倍はある専属のGYMがあり、庭には人口の滝が流れ落ち、水辺のような浅いところとスキューバダイビングの練習が出来るほどの深さのある大きなプールが備わっている。地下には彼のホビールーム、隠し部屋には射撃場(マシンガンも撃てるらしい)と、至れり尽せりの豪華な施設だ。召使(servant)が10人以上いて、看護婦も常駐しているらしい。車は10台ほどあって、ステーションワゴンからベンツ、BMWといろいろだ。アメリカ日産のPathfinder特製車があって、これはフィリピン国内には殆どないらしい。キッチンも何ヶ所かあって、Eddyは自分のためだけにアメリカ製のキッチンルームを持っていて、イタリアから取り寄せたという、高価な豚の片足が何本も下がっていた。とにかく、日本人の常識を覆すようなRich & Famousだ。
 その夜は、結局日本時間で2時頃まで家中を案内してくれた。久しぶりに完全英語の会話でくたびれたが、日本の事情を早く知りたいのか次々と質問があり、こちらからもいろいろな話をさせてもらった。
 翌日の予定が6時から始まるとの事で、breakfastに遅刻してはまずいので現地時間の5時には起きないといけない。早く寝ようと思ったが、エアコンは古いパナソニックで大音響、シャワーヘッドからは勢いのないぬるい水しか出ないで、結局は2時間程度しか眠れなかった。メンテナンスチェックに入ったのか、翌日からは水の勢いは回復したが、温度調節がうまくいかず、ひろみGOではないが、アチチ、アチだ。シャワーヘッドは相変わらず機能しないので、根元から外して使うことにした。

 翌日は、朝食をテラスで済まして多忙な日が始まった。まずはPICAOの事務所で秘書たちに会い、AMAという学校法人(コンピュータと医療関係)を訪れて、看護学校の視察を行った。ここでは、どうもアポイントがうまく入っていなかったのか、入り口で大分待たされた。暑いのにダークスーツで待っている日本人が物珍しいようで、こちらを見ながら急ぎ足で出て行こうとした白衣の男性スタッフが、閉まっていたガラス戸に激突したのには、こちらも驚いた。
 日本の看護学校は、自校で備えているのは教室と少しの機材だけで、あとは実習病院に依存しているのがほとんどだ。医学部付属の看護学校も、医学生のおこぼれで教育されているのに等しい。しかし、フィリピンで私が視察した学校は、自前で素晴らしい施設を持っていた。驚いたのは、解剖実習室(遺体を入れるホルマリンコンテナまである)、新しいオリンパスの顕微鏡が備えられた組織実習室があり、実際の外科手術室(手術器具まで揃えられている)やICU、出産室などの一部がフロア内に再現されていて、学生はそこでシミュレーションをすることが出来るようになっていることだ。私が行ったときには、椰子の葉で田舎の家を作っていた。その隣には田舎の診療室を作る予定との事。看護学校のビルの中で、地方の医療環境が再現されていて、離島へ行っても即戦力になるようにと教育されているのだ。また医療用のダミーも、男、女、妊婦、新生児、小児、老人、と何体も置いてある光景は、日本の医学部でもそうはないだろう。もちろん、ハイテクの数百万円もするダミーではないが、十分その目的を達することが出来るものだ。その他、カフェテラスがあり、図書室もあって、勉強するにはとても良い環境である。インドや香港から勉強に来ているという学生もいたから、教育レベルは日本より高いのかもしれない。説明をしてくれた若いマネージャーは、私が神経内科医であることに驚いたようで、医師控え室に連れて行ってくれた。小児科の女医さんが一人いて、「I know you are a pediatrician, because you are lovely.」と言ったら喜んでくれた。

 看護教育はフィリピンより日本が上だ、と日本政府や看護協会が考えているとしたら、それは大きな間違いのようだ。この施設を見てしまうと、日本にはまともな看護学校はないと考えざるを得ない。
 その後PICAOの事務所で、12月に日本へ出発する7人の介護福祉士候補と会った。
 「ハジメマシテ、ワタシハ○○○デス。Nicknameハシンディデス。25サイ、ドクシンデス」と、まだ覚えたての日本語で挨拶してくれた。笑顔が素敵な彼女たちだった。彼女たちが、日本で快く受け入れられて、日本の国際化に役立ってくれることを心から望みたい。
 「日本人も同じ人間だから、緊張しないで、リラックスしてやりなさい」と、私から言葉をかけてあげた。最後に皆で写真撮影。私は医学部の教員だった頃から、教えることが大好きなので、学生たちと話すのは実に楽しかった。

  その後、お昼を食べながらの会議をシャングリラホテルで行うことに。日本でいうと虎ノ門病院のような、医療水準の高い病院のDr.たちがPICAOの理事になってくれているのだが、その理事たちとの合同理事会である。ここ3年ほどフィリピンサイドはかなり頑張ってくれていて、日本でいえば朝日新聞、読売新聞のような、信用のある「The Star」という新聞にも我々のプロジェクトの記事や学生たちの写真が載った。かなり盛り上がっているのだ。しかるに日本側のトップがフィリピンに顔を見せないのはどうしてだ、とフィリピンサイドの理事たちがやや懐疑的になったらしい。まあ、当然のことだろう。その不安を払拭するために、私が今回の訪比をしたというわけである。

  以下の写真がその時に行った理事会後のスナップだ。Makati Medical Centerの代謝内・分泌科の医師(右から二人目)、外科医(右から4人目)、退職した教授でPICAO理事長(左から二人目)、弁護士(左端)、蜂屋氏(右端)の面々が、会議を終わって次のプロジェクトにGOサインを出して肩の荷が下りた、といった表情で写っている。この写真を見ると、日本から私がわざわざ出かけた意義があったようだ。
 この後、CHPという社会福祉系の学校へ。ここでは、日本語のコースを作って、少数精鋭のケア・ギバーを日本へ旅立たせる橋渡しをしている。日本語の先生が生徒に授業する風景を直に見ると、この国が教育というものを大切にしていることが良く分かる。教育を受けるのには費用が要る。そのお金を出せる人たちが、教育されて上に上がっていけるのだ。そのお金が出せない人たちが社会の底辺にいて、それが95%だとEddyが最初に話してくれたことなのだと分かった。日本人は、その点では恵まれている。その恩恵を、子供たちも大人たちも、もう少し真剣に受け止めて、もっと勉強しなければ、そのうちアジアの他の諸国に追い越され、さらに没落することもあり得るのだと思った。

  とにかく、私はそんな忙しい一日を過ごしたのである。



Eddyの家の一角、奥にPoolが見える。



PICAOの理事たちと会議が終わって。

 


Eddyのゲスト用ダイニングの二階にあるGYM、フル装備だ。