ドクタープロフィール
ドクター神津
神津院長は昭和52年に日本大学医学部を卒業後、同大学第一内科に入局され、その後、神経学教室が新設されると同時に同教室へ移られました。医局長、病棟医長、教育医長を長年勤められ、昭和63年、アメリカのハーネマン大学およびルイジアナ州立大学へ留学。帰国後、特定医療法人佐々木病院(内科部長)を経て、平成5年に神津内科クリニックを開業された。神津院長の活動は多岐にわたり、その動向は常に注目されている。
2006年2月号  -忘れ得ぬ患者さん-
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 私の次男が今研修医になって救命救急センターにいるらしい。らしい、というのは、彼が研修病院の近くでアパートを借りて住んでいるために、実家になかなか顔を見せないからだ。
私が研修医の時とは違って、二年間どこの医局にも属さないで、医療全般に関する臨床医としての能力を身に付けなければならないから、あちこちの臨床現場へ振り分けられて大変だと思う。しかし、それによって「プライマリ・ケア医としての人格の涵養」が出来るのであれば、国民にとってはこの新しい新臨床医研修制度の方が、ずっと従来の医学部卒後教育より良いはずだ。
今頃、彼がどんな患者さんを診ているのかと想像すると、昔の懐かしい研修医の思い出が蘇ってきた。今回は、そんな話しをしてみよう。wine

「バイオレットフィーズなんかどうだろう?」
「そうですね、きれいな色ですから。」とウエイターが頷いてにこりとほほ笑んだ。
「初めてなんです、カクテルなんて・・・」と彼女。
ホテルの最上階のラウンジから、大きな窓ガラスを通して見る夜の公園の灯りが、しっとりと夜霧に濡れて輝いていた。

あれは、夏の初めだったろうか、医学部を卒業して研修医の二年目に入り、同級生が次々と出張病院に派遣されていく頃のことだった。
我々の内科は、血液と呼吸器が専門の教室であったので、当然白血病や肺癌の患者さんを受け持つ機会が多かった。当時はどの抗癌剤の組み合わせがベストであるかのトライアルを行っていた頃で、ウンテンは週に二回の回診に間に合わせるために、毎日伝票整理に追われていた。「採血性貧血」などという、患者さんにとっては有り難くない医原性疾患を作ってしまったのもこの頃である。当直も多く、四十八時間労働をしていても頑張れた時代だった。今思えばもっとゆとりのある研修が出来たはずだと思うのだが、その真っ最中には思い浮かぶはずもなかった。
友人のM君が、すらりとした手足と長い髪の毛の十九歳のTちゃんを受け持ったのはこの頃だった。Tちゃんは急性骨髄性白血病で、治療により一時緩解し、病状は悪くはなかったが、強化療法を行うために、定期的に6Cの個室に入院していた。大学病院の若い医師は、まじめで正義感が強いから、若い女の子にとっては憧れの的になりやすい。
M君もご多分に漏れず、何回となくTちゃんから手紙やお菓子などの贈り物をもらって、みんなにうらやましがられていた。 Tちゃんの病状が思わしくなくなったのは、春過ぎ頃だったろうか、抗癌剤に抵抗してブラストセルが減らなくなった。そればかりではなく、点滴をするごとに髪の毛が抜け落ちて、精神的にも不安定になった。ステーションにM君がいると、必ずナースコールを押して彼を呼び寄せては、いろいろな訴えをするようになった。「M先生!また、Tちゃんよ!」と看護婦さんも「何とかして欲しい」というような対応になってしまい、あまりに頻回でM君も根を上げてしまった。そんな時、同級生のみんなが彼の代わりにやさしく対応するようになって、私もTちゃんに度々カウンセリングのようなことをするようになった。
そんな医師患者関係の中で、「退院したら食事に行こう」「ほんと?」という会話が自然と交わされた。ムーンフェイスになって、禿げ頭になったTちゃんは、もう最初のTちゃんではなかったけれど、心は十九歳の可愛いの女の子だった。治療は必ずしも成功したとはいえなかったが、強化療法の一応の期間が終了したということで退院となった。この時が最後の退院だろうと、誰もが思っていたから、私もなんとなく心残りだったが、新しい患者さんの入院などの忙しさで、そのうちTちゃんの事は忘れてしまっていた。そんなある日、深夜の病棟に電話が掛かってきた。 「先生、約束したの、おぼえてる?」とTちゃんの声だ。
胸がきゅんとなるというのは、こんなことをいうのだろう。カウンセリングのつもりでの励ましの言葉だったのだが、Tちゃんは憶えていたのだ。
「もちろん、おぼえているよ」
「外来のO先生から、もう少ししたら入院だっていわれたの」
「そう」
「長くなるかもしれないって。だから、今度食事に連れていってもらいたいんだけど、だめ?」 こうした時、経験のある医師だったらどんな対応をするだろうか?あれは治療のために話した事で、勤務医の僕には出来っこない相談だよ、と断るだろうか?その時の若い私の場合は、「約束は守らなければ約束ではない」と考えて、早速主任教授に相談をしたのだった。父の大学時代の後輩で、一時は開業をしながら、請われて日赤の部長から大学の助教授になったという苦労人の教授は、「君がそうしたいなら、責任をもってやりなさい」とアドバイスしてくれた。

何を食べたか、今はもう記憶にない。しかし、あの時きれいにヘアピースを整え、うっすらとお化粧をした貧血の青白い顔が、ほんのりと赤くなったのを思い出す。その後、少ししてTちゃんは再入院し、今度は違うM先生を困らせて、身体中から出血して、白血病の細胞を道ずれにして遠く旅立った。