ドクタープロフィール
ドクター神津
神津院長は昭和52年に日本大学医学部を卒業後、同大学第一内科に入局され、その後、神経学教室が新設されると同時に同教室へ移られました。医局長、病棟医長、教育医長を長年勤められ、昭和63年、アメリカのハーネマン大学およびルイジアナ州立大学へ留学。帰国後、特定医療法人佐々木病院(内科部長)を経て、平成5年に神津内科クリニックを開業された。神津院長の活動は多岐にわたり、その動向は常に注目されている。
2005年7月号  -プライマリ・ケア臨床研修奮戦記 そのI-
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 平成16年度から、医師の卒後研修が義務付けられて、プライマリ・ケアが必修となったことは以前書いた。厚生労働省の通達(平成15年6月12日)には「医師が、適切な指導体制の下で、医師としての人格をかん養し、プライマリ・ケアを中心に幅広く医師として必要な診療能力を効果的に身に付けることができるものとすること」「医師が、医師としての基盤形成の時期に、患者を全人的に診ることができる基本的な診療能力を修得することにより、医師としての資質の向上を図ることを目的としており、地域の医療提供体制の整備に当たっても、重要な役割を果たすことを期待されるものである」と記されている。
 日本大学医学部は、大道教授が国の新医師卒後研修計画についてアドバイザーをされていた関係で、全国の大学に先駆けて早くから「地域医療」を教育する医療機関を募っていた。私が大道先生からお電話を頂き、是非とも協力して欲しいという申し出を断る理由はなかった。しかし、何しろ日本の医学教育上の大改革である。何もかもが初めての事ばかりであるから、最初からうまく行く筈もなく、何回かその打ち合わせ会が行われたが、何がどうなるのか、という予測がまったくつかないままに、医療機関の登録、認定、大学との契約の締結と、次々と進んでいった。研修医の給料は決まっていたが、「指導医」のfeeは決まっていなかった。「研修医を受け入れる施設は、医局があり、ロッカーがあり、図書室があり、インターネット環境がなければならない」ことになっていたから、遅ればせながら、それぞれの準備をすることになった。
 IT機器は、個人的な使い勝手が問題なので、今現在使っているコンピュータを研修医と共同で使うことが出来ない。当然、もう一台用意をすることになる。症例発表会や、meeting、講義などはPower Pointが常識であるから、液晶プロジェクターも当然用意しなければならない。テーブルもイスも新調して、といろいろと準備をすると、5-60万円は軽く超えてしまった。これが我々が研修医を受け入れるために成した努力である。Initial costというのはどんな事業でもかかるものである。そんな事が分からないで、国も大学も、よく「お願い」が出来るものだと、正直憤然としている。そのうち、この投資は回収出来るものと考えているが、指導医手当てがまだ決まらないところを見ると、何年かかるか不安が残るのだ。
 さて、その研修医が、5月30日から二名来ることになった。
 毎月一人、二人を受け入れる覚悟は出来ていたが、実際に蓋を開けてみると、杏林大学からの6年生の実習生も加わって、計三人の面倒見ることとなったのには少し驚いた。しかし、来るものは拒まず、の人生観を変えることは出来ない。結局5月30日から二人、6月6日からは三人の指導をすることになった。

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