ドクタープロフィール
ドクター神津
神津院長は昭和52年に日本大学医学部を卒業後、同大学第一内科に入局され、その後、神経学教室が新設されると同時に同教室へ移られました。医局長、病棟医長、教育医長を長年勤められ、昭和63年、アメリカのハーネマン大学およびルイジアナ州立大学へ留学。帰国後、特定医療法人佐々木病院(内科部長)を経て、平成5年に神津内科クリニックを開業された。神津院長の活動は多岐にわたり、その動向は常に注目されている。
2004年6月号 -日本医師会代議員- backnumberへ
 「ばんぶー」という日本医療企画から出ている医療ジャーナルがある。この雑誌で今年の2月号に日本医師会長選挙を占う特集記事が出された。その中の座談会で、私は若い医師会員にとって、日本医師会代議員に選ばれることへの道程の遠いことを述べた。一般的に、地区医師会で理事を何期か務め、副会長、会長になってから、都道府県医師会の理事を何期かやり、副会長、会長になってから日本医師会代議員になる、という階段をステップアップするのが医師会の中の「暗黙のルール」となっている、そのために、代議員は皆老齢化してしまい、改革の情熱は失われてしまう、と話した。恐らく、医師会員の数が少ない医師会はこの通りだろう。しかし、東京都医師会のように会員数の多い医師会は、代議員(医師会員500人に一人割り当てられている)の数が多いため (現在39名)、必ずしも東京都医師会の理事でなくても良い。しかし、まずは東京都医師会の代議員になっていて、順番を待っていなければ代議員になれない。東京都医師会の代議員になる、ということは、地区医師会の理事でなければならず、とりあえず医師会の役員をしていなければならない。この役員になる、ということが、地区医師会のボスとどう関わっているかによるのだから、若い開業医にはまず縁の遠いことだというのは、この回りくどい説明でお分かりになると思う。

私は日本医師会が「未来医師会ビジョン委員会」という若手医師を集めた塾を始めたときに、第一回から参加し、第二回には副委員長を仰せ付かったので、日本全国の若い開業医がどのような事を考えているか、どのような地区医師会、どのような日本医師会を望むか、そのあり方や理想を聞き、その矛盾に満ちた心、熱く語る情熱を肌で感じてきた。今回の日本医師会の代議員選挙に際して、外野から何を言っても仕方ない、遠い遠い、と呪文のように唱えていてもどうしようもない、矛盾があるなら、それをストレートに表現していかなければ、自分らしくないではないか、と思い至った。実際、日本医師会の代議員の候補者たる資格は、日本医師会会員であること、そして自ら立候補するもの、または二名の推薦者によって推薦され、自らが候補者となることを了承したもの、という、非常に開かれたものである。それならば、とお二人の先生に推薦を頂いた。これが思わぬ波紋を広げるのだが、私の思いを理解していただき、私の将来の活躍に期待して下さる先生方の後押しで、「東京都医師会推薦日本医師会代議員」に当選した。やはり、待っていては何も出来ず、自分の足で前に進むものには道が開かれるというのは本当のことだと思った。

読者もご存知のように、北海道の青柳先生が有利、との状況の中で、他の三候補が三派連合を組んで票固めをした結果、大阪府医師会長の植松先生が会長に選ばれた。この時、東京都医師会は桜井先生を会長に推薦していたので、私の一票は桜井先生に入れられるべきものであった。しかし、桜井先生は選挙1週間前に副会長候補に宗旨変えしてしまったため、会長選挙では植松先生に入れられることになった。選挙前日から、自陣営の代議員の、意思の統一を計るために、一箇所に集合して集団行動を取るように指示された。勿論、自律した医師たちであるから、自らの意志を貫く覚悟で集まっている訳だが、選挙戦相手を「敵」と見なす言動がそこここで見られたのは不思議な光景であった。皆、日本医師会をより良くしたいと考えて立候補した人たちである。スポーツと同じく、エールを送ることはあっても、ヤジや良からぬ噂を流し、追い討ちをかけるように罵倒したりする態度は医師としての資質に欠けるといわれても仕方がないと思った。

日本医師会の代議員になってから、日本医師会の理事会での議事録が毎週FAXで届くようになった。「日医FAXニュース」というものも届く。こうしたものは、今まで地区医師会の会長までで止まっていた情報である。これらの情報を、どのように会員にfeed backするか、今考えを巡らせているところだ。

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