石井正教授コラム『継続可能な地域医療体制について』(毎月15日掲載)
石井 正 教授

石井 正 教授

1989年
東北大学卒業
1989年
公立気仙沼総合病院(現 気仙沼市立病院)で研修医となる
1992年
東北大学第二外科(現 総合外科)入局
2002年
石巻赤十字病院第一外科部長就任
2007年
石巻赤十字病院医療社会事業部長に異動
2011年2月
宮城県から災害医療コーディネーターを委嘱
2011年3月
宮城県災害医療コーディネーターとして石巻医療圏の医療救護活動を統括
2012年10月
東北大学病院総合地域医療教育支援部教授就任
2022年
卒後研修センター副センター長、総合診療科科長、漢方内科科長兼任
2022年9月号
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石巻圏合同救護チームからの提言

5月19日に発表された「石巻圏合同救護チームからの提言」とはどのようなものだったのですか。

最大の目的は新しく参集してくださる救護チームに対し、私たちの活動を理解していただくことにあったのですが、メディアの方たちにその時点での石巻医療圏の課題を知っていただくプレスリリースでもあり、行政にも私たちの活動を知ってほしいという目的もありました。ここで真っ先に提言したことは再津波対策の必要性です。

再津波対策をどのように訴えられたのですか。

再津波の到来が懸念される危険地域には避難所を作らないことが理想ではありますが、避難所をすぐに高台に移すのは石巻市の現状では難しかったのです。そこで再津波危険地域を明確にしたうえでマップを作成し、避難場所や経路も選定して、住民の方々に周知徹底するという次善の策を提案しました。それから瓦礫撤去です。避難所周辺に瓦礫があれば、舞い上がった粉塵による呼吸器疾患のリスクは避けられません。片付け作業をするときの外傷や破傷風の危険もあるので、迅速な瓦礫撤去を求めました。

ほかにはどのような提言をされたのですか。

医療過疎地域となった雄勝町と北上町、旧北上川以東の地域に、医師を確保したうえでの仮設診療所を設置することを要望しました。さらに石巻市内の避難所や仮設診療所を巡回し、住民が受診しやすくなるように無料巡回バスの運用、避難所環境の改善、仮設住宅の建設、下水整備なども要望しました。

そういった要望は実現されましたか。

石巻市が迅速に対応して、実現してくれたものもありましたが、そうでないものもありました。災害では自助、共助、公助が大切だと言われますが、自助と共助に関しては住民の方々の努力や地元企業の協力など、素晴らしいものがありました。しかし公助に関してはあまりにも大きな災害だったため、行政の処理能力やシステムでは限界があったんです。それでも石巻圏合同救護チームは行政に要望するだけの組織ではなく、行政が何かしてくれるまで待つ時間もなかったので、自分たちで実現できる可能性があるものについては具現化するよう、独自に模索していきました。

石巻医療圏の再生に向けたソフトランディング

「石巻圏合同救護チームからの提言」以後の課題となったのはどのようなことですか。

4月あたりから避難所や救護所での受診者数が減り、開業医の先生方の診療所も復活してきたので、チームの課題は被災者の自立を支援しながら、地域の医療機関にいかに引き継ぐかということでした。しかし、6月に入ってからも石巻赤十字病院への急患数が減らなかったのです。その原因は避難所の環境ではなく、津波で被災した石巻市立病院と夜間急患センターの機能停止にありました。したがって、石巻医療圏の救急体制の再構築が必要でした。

どのように再構築していかれたのですか。

エリアごとに避難所の巡回頻度を減らしながら、巡回のたびに再開した開業医の先生方の情報を受診した方に周知し、なるべく開業医の先生の診察を受けるように促していきました。徐々に暑くなってくると、下水などの衛生環境が悪い地区も出てきたりしましたが、被災者の方々の移動手段として、イオンが仙南交通と協力して、無料医療支援バスを出してくれるようになり、そのルートを救護チームで設定しました。

ルート設定でどのような工夫をされたのですか。

開業医の先生方の診療所はJR石巻駅の周辺に多いので、そこを通るようにしたということです。バスが運行されるようになれば、救護所で診察を受けるしかなかった被災者の方々が開業医の先生方の診療所を受診することができるようになります。そうすると。合同救護チームが担ってきた診療を地域医療に引き継いでいけますからね。そして、そのバスルートは石巻市役所も通るように設定したので、被災者の方々が罹災証明の取得や各種の減免措置の手続きに行くことができるようになりました。結局、無料医療支援バスは6月14日から7月19日まで、定点救護所の一つがあった石巻市立万石浦中学校からイオン石巻ショッピングセンター間を1日5から6往復して、延べ2480人の方が利用しました。

保健診療における窓口負担も免除になったそうですね。

発災直後は「免除」ではなく、「猶予」となっており、4月初めの段階では国保や後期高齢者医療制度では「免除」の検討段階で、社保や船員保険の加入者は「猶予」のままでした。4月6日に細川律夫厚生労働大臣が石巻赤十字病院を視察されたときに、「社保などの方も『猶予』ではなく、『免除』にしていただけないですか」とお話ししたところ、1時間後に大臣ご本人から「『免除』の件はやるから」とお電話をいただき、30日の補正予算協議で与野党の合意があったのです。これで被災者の方々の心理的負担が軽くなりました。

全ての救護活動を終えたのはいつですか。

9月30日です。7月には開業医の先生方の診療所のうち9割が復活したので、エリア6、7、15の活動を終了し、8月にエリア11の活動も終わりました。残ったのは「無医地区」となった雄勝エリアだけだったのですが、仮設診療所の開設が10月に決まったので、合同救護チームは9月一杯で解散することになったんです。避難所も10月11日に石巻市内、11月9日に女川町内の全ての避難所が閉じられました。

意志

発災から石巻圏合同救護チームの解散まで、先生を支えたものは何ですか。

「意志」です。とにかく石巻の再生のために全力を尽くすという意志ですね。3月17日に渡波地区を車で訪れたとき、道中町は停電で真っ暗になっており、数万人規模の方がそこにいるはずなのに物音一つしませんでした。そのときから「この人たちを何とかしなければ」と思ったんです。私自身は仙台市の自宅も石巻で借りていた単身赴任用の住まいも、家族も無事でした。恵まれた環境にいましたし、ほかの地区から支援にいらした皆さんが「もっと石巻にいたかった」とおっしゃるようなストレスもなく、当事者であり続けることができたのも良かったです。

前例のないことが色々と実現していきましたね。

それができたのは日本人としての同胞愛があったこと、そしてデータ、ブレーン、ロジスティックを維持できたからだと思います。そして、私が宮城県の災害医療コーディネーターだったこと、東北大学出身者だったことで、「地元」の人間であり、様々な組織との調整ができたことも大きかったですね。ただ、ロジスティックに関しては合同救護チームが日赤の病院に置かれたため、日赤から多大な支援が得られたこと、ブレーンに関しては私の個人的なネットワークがうまく働いたことを「運が良かった」で終わらせず、今後の大規模災害に繋げていかなくてはいけないと考えています。

(10月号に続く)

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