神津 仁 院長

神津 仁 院長
1999年
世田谷区医師会副会長就任
2000年
世田谷区医師会内科医会会長就任
2003年
日本臨床内科医会理事就任
2004年
日本医師会代議員就任
2006年
NPO法人全国在宅医療推進協会理事長就任
2009年
昭和大学客員教授就任
2017年
世田谷区医師会高齢医学医会会長
2018年
世田谷区医師会内科医会名誉会長
1950年
長野県生まれ、幼少より世田谷区在住。
1977年
日本大学医学部卒(学生時代はヨット部主将、運動部主将会議議長、学生会会長)
第一内科入局後、1980年神経学教室へ。
医局長・病棟医長・教育医長を長年勤める。
1988年
米国留学(ハーネマン大学:フェロー、ルイジアナ州立大学:インストラクター)
1991年
特定医療法人 佐々木病院内科部長就任。
1993年
神津内科クリニック開業。
6月号

ALDと中鎖脂肪酸

 若い頃大学にいた時には、病棟から帰ると図書館か共同研究センターに入り浸っていることが多かった。今とは違って、インターネットがない時代だから、研究のための文献探しといえば、図書館に行くよりほかはなかった。日本大学医学部の図書館の蔵書はかなり充実していて、American Heart Journalは1929年のものから揃っている。

 一つの文献から孫引きして,その引用資料の原著にあたることが大切なのは今と同じだ。我々が研究に従事していた1970年代には、今でいうデータベースをきちんと持っている組織はなく、日本の雑誌であれば、表題と著者、抄録と掲載雑誌の発刊情報を出している「医学中央雑誌刊行会(医中誌)」から取るしかなかった。たぶん図書館でお願いしたこともあると思うがお金がかかる。それで製薬企業のMRに頼んで、会社から打ち出した資料を大量に持ってきてもらうことが多かったと思う。

 英語論文が欲しい時には、Index Medicusを使った。こちらの方は図書館でしか検索ができなかったので、似たようなkeywordでテレックス用紙に打ち出してもらう。これも結構お金がかかり、医局で建て替えてもらうのだが、時々身銭を切ることで医局の財政を補助するのが医局員の務めのようなところがあった。私はこのテレックス用紙を片手に、図書館のあちらこちらを調べて歩くのがとても好きだった。

 今はもう忘れ去られていて、私でも記憶の片隅に残っているだけだが、世界で初めて医学文献のデータベースを発刊したのがIndex Medicusだ。古くはアメリカのLibrary of the Surgeon General’s Office, United States Armyから始まって、The United States National Library of Medicine (NLM) の集めた文献情報を発展させた。

 1879年から毎月発行され、1960年代に入るとMEDLARS (Medical Literature Analysis and Retrieval System) がonline検索できるようになり、1971年にはMEDLINE (MEDLARS online) となり、1996年には今現在皆さんがインターネットで使っているPubMedになっている。

医学部総合医学研究所

 図書館とともに足しげく通っていたのが共同研だ。各科の医局員が、それぞれの研究を発展させるために、共同利用できる施設が共同研だった。確か共同研究センターと称していたと思うが記憶が定かではない。そこには、生理学や生化学、動物専用の手術室や病理学などの研究室が不規則に並んでいた。私が利用していたのは電気生理の研究室だ。そこには高橋さんという素晴らしい技術者がいて、彼と雑談をしながら研究のアイデアをあれやこれやと出し合うのがとても楽しかった。

 高橋さんは、理科大を中退してこの世界に入ったという。詳しい話は聞いても話してくれなかったが、学生運動が遠因だったようだ。私の学位論文は「アキレス腱反射の客観的評価―反射計の試作および反射波の基礎的検討-:脳波と筋電図,Vol.15, No.1, 1987.」だが、これも高橋さんと一緒に作った業績だった。このアキレス腱反射計は、strain gageを用いたものだが、そのアイデアは彼の提案だった。これに私は”神津-高橋のアキレス腱反射計”と名付けて高橋さんの貢献に報いたいと考えたが、「いいよ、先生、そんなことしないで。先生の名前だけで」と譲らなかった。もう一つ譲らなかったのは、私がこのアキレス腱反射計で実用新案権を取ろうと冗談交じりに話をした時に、「先生、scientistはそんなことをしちゃだめですよ。価値が下がります」と私を諭したことだ。Scienceにその生涯を捧げた高橋さんらしい考えだった。惜しいことに高橋さんは癌で亡くなった。

脂肪酸分析

 診断のつかない患者さんを前にして、文献検索の結果から急に視界が開けて稀有な疾患の診断に結び付くことは、臨床医にとってはとてもエキサイティングなことだ。そんな症例を大学病院ではいくつも経験する。関東で初めてHAM (HTLV-1 associated myelopathy) の症例を診断したのは、納先生のthe Lancetのletterを読み、他の症例報告でステロイドが奏功すると知ったからだった。

 ALD (Adrenoleukodystrophy) の症例を見つけたのも、図書館での文献検索と、共同研の技術スタッフのおかげだった。これは「著明な痙性四肢麻痺、仮性球麻痺、交代性眼振および進行性の脳幹・小脳萎縮を示す成人発症のALDと考えられる1症例」と題して、第90回日本神経学会関東地方会(1984)で発表した。

 ALDは、「先天的な脂質代謝異常によって脱髄が起こる白質ジストロフィーないしペルオキシソーム病の一種 (Wikipedia) 」である。

 この疾患は、健常者ならば持っている長鎖脂肪酸を正常に代謝するための酵素が先天的に欠損しており、そのため代謝異常によってこの長鎖脂肪酸が正常に排出されず、神経細胞内に蓄積する。神経細胞に蓄積した長鎖脂肪酸は、ミエリンと呼ばれる中枢神経系の髄鞘を剥ぎ取り、そのことによって脳の白質を傷つけるという病気である。

 男性は1つ、女性は2つ持っているX染色体に存在するALD遺伝子の異常でおこる遺伝性の病気であり、原因遺伝子が性染色体の上にあるため、異常な遺伝子を持つX染色体を受け継いでも、X染色体を2つ持つ女性はもう片方が正常であれば、異常な染色体の役割を代理するので病気になることはほとんどないが、X染色体が元々1つしかない男性は発症しやすい(伴性遺伝)。そのため、女性、つまり母親側がキャリアとなり、約50%の確率で男児にのみ発症するのである。

 症状は人によってまちまちだが、小児発症の場合は過敏症が先に現れ、学校や社会生活などでヒステリー様の症状として気づかれ、学校等での行動異常、学力低下、次第に無言症、歩行不安、失明、皮膚の剥離とさまざまな症状が現れ、約2年で死亡と予後は不良。症状は多く急速に進行する。

 病型としては、1.小児大脳型、2.思春期大脳型、3.副腎脊髄ニューロパチー (AMN)、4.成人大脳型、5.小脳・脳幹型、6.アジソン型、7.女性発症者、8.その他(発症前男性等)に分けられる。私が大学で診断に苦労していた患者は、著明な痙性四肢麻痺、仮性球麻痺、交代性眼振および進行性の脳幹・小脳萎縮を示していた。

 髄鞘の変化は神経系のいたるところに傷害をもたらすので、進行する病変の空間的、系統的な把握が困難だ。文献を漁っているうちに、似たような症例報告をいくつか見つけた。どうも脂肪酸分析をして長鎖脂肪酸の異常を証明することができれば診断に繋げられるらしい。こういう時の頼みの綱は共同研だ。高橋さんに話すと、微量分析装置があるらしい。ガスクロマトグラフを用いれば赤血球膜脂質の分析が出来るかもしれないというので、生化学室のチーフに掛け合いに行った。大学病院の臨床検査室が協力してくれるので、何とか脂肪酸分析ができないだろうか?と聞くと、それに見合ったカラムが今はない。取り寄せる必要があり、それには数万円の費用が掛かるが良いか?との話だった。もちろんお願いします、と医局に費用請求してもらうことにした。

 その結果、やはり長鎖脂肪酸の比率異常が見つかり、ALDの診断をつけることができた。もちろん効果的な治療法はなく、患者は長期療養施設に転院するより他はなかった。

ロレンツォのオイル

 それからしばらく経って、『ロレンツォのオイル/命の詩』(原題:Lorenzo's Oil。1992年のアメリカ映画。ジョージ・ミラー監督)が公開された。副腎白質ジストロフィーに悩むひとり息子ロレンツォを助けるために必死に解決策を探すオドーネ夫妻の実話に基づく物語である。

 あらすじはこうだ。「ひとり息子であるロレンツォの難病を治すことの出来る医師がいないと知り、オドーネ夫妻(夫アウグストと妻ミケーラ)は医学的知識がないにもかかわらず、自力で治療法を探すことを決意する。治療法を見つけ出すため、もはや手の尽くしようがないと信じる医師、科学者、支援団体らと夫妻は衝突する。しかし自らの意志を貫き、医学図書館に通い詰め、動物実験を参照し、世界中の研究者や一流の医学者らに問い合わせ、さらに自ら副腎白質ジストロフィーに関する国際的シンポジウムを組織するに到る。死に物狂いの努力にかかわらず、息子の様態は日々悪化する。次第に彼らが参加していた支援団体のコーディネーターからも疑念が抱かれる中、彼らは食事療法として特定のオイル(実際にはエルカ酸とオレイン酸のトリグリセリドを1:4の割合で配合したもの)に関する治療法を思いつく」そして、ある英国の化学者に希望を託すというものだ。

 実際にこのオイルは作られて、ロレンツォが誤嚥性肺炎で2008年5月に亡くなるまで服用されていた。一般的に小児期では予後が2年と早いのにも関わらず、30歳まで生きたのはこのオイルのおかげかもしれない。

ヘルシーリセッターという中鎖脂肪酸

 このオイルのことはずっと私の頭の中にあった。開業して在宅医療を始めてすぐの頃、昭和大学から気管カニューレ、胃瘻、膀胱バルーンカテーテルの付いた64歳の男性を紹介された。病名は「Adrenomyeloneuropathy、頚部縦隔膿瘍術後」だった。簡単な経緯は以下のようなものだ。

 「1990年頃より躓きやすくなり、94年頃より右下肢の脱力が進行し、杖歩行となる。2002年より、神経因性膀胱、2003年より嚥下困難が出現し1月28日に頚部膿瘍を生じて治療のため〇〇中央病院経由で2月4日に昭和大学にて手術を行った。以後気管切開、胃瘻、膀胱バルーンカテーテルの装着となった。2003年10月22日より退院にて在宅医療を開始」
 当時はBMLがMAYO clinicと提携して脂肪酸分析を商業ベースでやっていたので、3万円ほどかかったが、長鎖脂肪酸の異常を確認することができた。

 在宅医療の良い点は、自分の時間、自分の生活リズムを取り戻せることだ。次第に全身状態は回復し、訪問診療の度に気管カニューレの抜去、膀胱バルーンカテーテル抜去、胃瘻チューブ抜去を行い、1年ほどで在宅医療を終えて外来診療に切り替えることができた。

 この頃、日清オイリオから「ヘルシーリセッター」という中鎖脂肪酸で作られた食用油が売り出された。中鎖脂肪酸は食用にするにはひどく不味くて、製品化するのが難しいものだったようだが、企業努力で商品化された。これを知った私は、患者の妻にこの中鎖脂肪酸食用油だけを使って調理するように頼んだ。その効果は目に見えるものではないが、進行が緩徐になったのではないかと考えている。しかしながら、agingとも相まって、一時期はシニアカーで外出が可能であったが、次第に家に閉じこもる傾向が強く、リハビリスタッフの誘導にも応じず、室内歩行も『する気がない』と怠りがちとなった。下肢の筋力の低下、筋委縮も進み、認知機能も低下傾向で、結局この患者も特別養護老人ホームに施設入所となった。

〈資料〉

1) Index Medicus:
https://en.wikipedia.org/wiki/Index_Medicus
2) 副腎白質ジストロフィー(Wikipedia):
https://bit.ly/36plPkw
3) 副腎白質ジストロフィー(指定難病20):
https://www.nanbyou.or.jp/entry/186
4) ロレンツォのオイル/命の詩”:
https://bit.ly/3e69m7I
5) ヘルシーリセッター:
https://bit.ly/3bREJRW

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