神津 仁 院長

神津 仁 院長
1999年
世田谷区医師会副会長就任
2000年
世田谷区医師会内科医会会長就任
2003年
日本臨床内科医会理事就任
2004年
日本医師会代議員就任
2006年
NPO法人全国在宅医療推進協会理事長就任
2009年
昭和大学客員教授就任
2017年
世田谷区医師会高齢医学医会会長
2018年
世田谷区医師会内科医会名誉会長
1950年
長野県生まれ、幼少より世田谷区在住。
1977年
日本大学医学部卒(学生時代はヨット部主将、運動部主将会議議長、学生会会長)
第一内科入局後、1980年神経学教室へ。
医局長・病棟医長・教育医長を長年勤める。
1988年
米国留学(ハーネマン大学:フェロー、ルイジアナ州立大学:インストラクター)
1991年
特定医療法人 佐々木病院内科部長就任。
1993年
神津内科クリニック開業。
12月号

Never, ever give up!

 先日、いい夫婦の日(11月22日)だというので馴染みの寿司処に行ってきた。我々より少し若い、60代後半の夫婦がカウンターで食事をしていた。その寿司処の近くにあるGYMの帰りによく寄るという常連さんだ。週に1回はここで寿司を食べるという。我々は年に何回か行くだけだが、それでも10年以上通っているから顔なじみといってよい。

 「お久しぶりですね、どうぞ」と案内してくれた大将は、少し前に管理職に就いたという。その施設のフロアにはダイニングとして寿司のカウンター、てんぷらのカウンター、あとは日本料理を出すテーブル席が10席ほどあって、職人と仲居、ソムリエの資格を持つ支配人などがキビキビと働いている。

 「いつもは事務机で仕入れや労務関係などの仕事をしていて、週に1回はカウンターで握るんですが、今日はその日でして、お会い出来てご縁を感じますね」と、マスクの奥で微笑みながら美味しい寿司を握ってくれた。

 「総勢30人ほどいます。今度忘年会をやるんですが、やはりみんなで集まって意思の疎通を計るのが大事ですね。もちろん、別の場所で計画しています、ここじゃあ誰かが仕事しなくちゃいけないんで」と。大学時代は7年間病棟医長をしていて、いろいろな行事毎に飲み会を開いていたから、彼の立場は良く理解できる。日々の仕事が遅滞なく円滑に運ぶには、表の仕事と同時に、裏での仕込みや段取り、阿吽の呼吸を支えるスタッフ共通の意思が常に醸成されていることが必要だ。

初めてだらけの「つくば万博」

 随分昔のことだが、つくば万博の会場内診療所の一つを開設する依頼が、日本大学医学部にあった。各科の医師、看護師、事務職が数名ずつ、会場近くの公団アパートに、何日か宿泊しながら勤務する仕事だった。今では考えられないが、周りには食堂も商店もなく、コンビニに行くのに国道沿いを30分歩かなければならない場所だった。

 内科は、他の診療科よりも総合的な立場で診療体制を作れるはずだというので、私は他のスタッフと共に「開設先遣隊」として送り込まれた。指定された区域に行ってみると、きれいだが、何もないがらんどうの建物に、大きな段ボール箱が十数個運び込まれていて、まずはその開梱作業から始めなければならなかった。輸液ボトルが数十本、注射器、ガーゼ、血圧計、輸液セット、縫合セット、外科や耳鼻科の診療器具、注射液、軟膏、経口薬、座薬、点眼等々、開けて、診療しやすい場所、保管する場所、建物のどの部分をどのように使用するか、診察机、ベッドはどこに置いて、アンビューバッグはどこに仕舞うか。診療録はどう書くか、日本人だけではない、外国人も多く、患者のID、保険の確認、支払いはどうする、今と違って、レセプトコンピュータもFAXもなく、もちろん電子カルテもない、すべて紙ベースだから、事務方の仕事は大変だったと思う。

 「先生、目が開かないという人が来てます!」と看護師から呼ばれていくと、インド系の色黒の中年男性が目をつぶって涙を流しながら立っていた。当時、万博会場は工事中の施設がいくつもあって、砂や土埃が舞うような土地だった。我々が会場に入ったのはちょうど3月の風の強い時で、いろいろなものが空気中を漂い、目に入って炎症を起こす人が多かった。しかし、まだ荷物の開梱が終わっておらず、眼科処置用の物品がどこにあるかも分からなかった。

 「とりあえず、生理的食塩水で洗ってみよう」と看護師に指示して、洗眼受水器を患者に持たせて洗ってみた。多分パッケージを開けたばかりで冷たかったのか、
「Oh, ouch!! what did you do!」と患者は頭をのけ反らせて驚いた。生理的食塩水で、体に悪いものではないよ、と話して、抗ヒスタミン薬を処方した。「帰ったら眼科を受診するように」と伝えたが、何もできなかったその当時のことを思い出すと歯痒い思いがする。

 1985年に始まったつくば万博で、初めて「FAXなるもの」がお披露目された。それまでは音声では電話、短報なら電報、海外との資料のやり取りはテレックスが使われていた。FAXは同じ通信でも、画像を転送できるという、画期的な通信機器であり、その登場は衝撃的だった。私も、会場のある部屋から、ガラスを隔てた隣のブースにあるFAXマシンへと、送った図形がそのまま出てきた時には「Why?」と驚きを隠せなかった。

 その後1989年にアメリカ留学した際には、すでにFAXは花形通信機器になっていて、国道沿いに「Express FAX service!」という看板を掲げたFAXサービスショップがたくさん出来ていた。

夢を追う

 68歳の時に自動二輪の免許を取ったことは2018年の9月号で報告した。免許を取り終えた当初は、大型二輪はとても無理だと感じていた。追加の教習は一般で申し込むより割安で受けられる、とパンフレットに書いてあったが、一本橋を10秒以上かけて通過するという命題に挑戦したいとは思わなかった。

 憧れていたYAMAHA Drag Star400を手に入れて、バイクで出来ることをたくさんSophy(バイクの名前)と楽しんだ。オリジナルは少しダサいので、マフラーを気に入ったものに交換したり、高速道路に乗るのに料金所でもたつくのは他の車両に迷惑なのでETCを付けたり、息子に買ってもらったバーナーでコーヒーを沸かして冬の1日を楽しんだり、保土ヶ谷サービスエリアでOld Biker達と交流することもできた。今年の夏は三崎に寿司を食べに行ったり、ヘルメットにはマイクとスピーカーを付けて音楽を聴きながらドライブしたり、電話を受けたり。とにかく診療から離れて、違う時間と空間に身を置くことを楽しんでいた。

 ある時、ふと「今の自分の運転スキルなら、大型二輪に乗れるかも」と思った。いつもバイクに乗る時には、今日は安全に運転できたか、ギアチェンジをミスらなかったか、安定した走りが出来たか、とバイクベースに帰ってきて車体のクリーニングをしている時、あるいは自宅に帰ってジャグジーに入りながら、思い起こして反省することにしているのだが。そんな時に、ふとHarley-Davidsonに乗ってみよう、と思ったのだ。

 実は、私が卒業したコヤマドライビングスクールでは、大型二輪の教習は、HONDAとHarley-Davidson(HD)のどちらかを選べる。後者の方が運転操作は難しく、大体の教習生はHONDAを選ぶといわれていた。ただ、私は免許が目的ではなく、HDに乗る、あるいは乗れる自分を確認したかった。もちろん、教習を受ける以上は免許にも挑戦する。しかし、Sophyを買い替えるつもりも、高価なHDを買いたいという思いもなかった。

 そんな時に、『ナイアド 〜その決意は海を越える〜』という映画をNetflixで観た。

 その2023年制作のアメリカ合衆国の映画は、64歳でフロリダ海峡約180キロを泳いで横断する偉業を成し遂げたスイマー、ダイアナ・ナイアドの実話を映画化したのもだった。何度も挑戦して失敗し、最後に成功してフロリダ海岸に到着した時に、彼女が「絶対にあきらめないこと」「夢を追うのに年齢なんて関係ない」と叫ぶのだ。

 勿論、ハリウッド映画の作られた感動の瞬間ではあるが、これが私の心に響いた。そして私はコヤマドライビングスクールに教習申し込みをしに行くことを決めた。

Harley-Davidson

 入校許可は、普通二輪と同じく、バイク起こしのテストから始まる。普通二輪の時はHONDA CB400だったが、今回はHDを教官が倒して始まった。CB400は201kgだが、HD883は256kg。大人一人分重い。このテストが入校前にあることは織り込み済みだ。私は事前にYouTubeで予習していったので、難なく起こすことが出来た。この手技は結構大事で、教習中に何回か転倒したが、無事さっと起こすことが出来た。多分公道でコケたら慌てると思う。事前に安全な所で、何回か経験することは無駄にはならない。
 何回かの教習を受けた後、痛烈に感じたのが、重いバイクを扱うには自分の体重が軽く、筋力(握力も含めた)も不十分だということだった。私は、健康を目的に68kg程度に体重コントロールをしていた。もちろん、2型糖尿病、脂質異常症、高尿酸血症などはこの体重を維持している限り、検査データは正常化していた。しかし、この状態では、今の自分が大型二輪を扱うのに不十分だと分かった。

 それで肉食を増やし、炭水化物も今までの量の5割増しで摂取することにした。現在は70kgだから、約2kg増やしたことになる。それと同時に肉体改造することにした。そんな大それたことではないが、上体・腕力強化のための機械、握力強化グッズを買った。その甲斐あって、バイクの取り扱いが軽くなり、それまで握るたびに跳ね返されていたブレーキバー、クラッチバーも軽く握れるようになった。

 さて、それでどうなったか。今のところ全教習を無事に終えて、とうとう卒業検定を受けることになった。たとえ落ちても、Never, ever give up!だ。来年には良い結果が報告できることを期待して欲しい。

<資料>

1) 土浦周辺の文化環境情報誌2017
https://bit.ly/3Rg8S5n
2) 「ナイアド」シネマラインアップ
https://www.cinema-lineup.com/nyad
3) Bike Bros.「ハーレーダビッドソン XL883R スポーツスター883R – 伝統の4カムエンジンを搭載するスタンダードモデル
https://bit.ly/3RjtuKh

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