石井正教授コラム『継続可能な地域医療体制について』(毎月15日掲載)
石井 正 教授

石井 正 教授

1989年
東北大学卒業
1989年
公立気仙沼総合病院(現 気仙沼市立病院)で研修医となる
1992年
東北大学第二外科(現 総合外科)入局
2002年
石巻赤十字病院第一外科部長就任
2007年
石巻赤十字病院医療社会事業部長に異動
2011年2月
宮城県から災害医療コーディネーターを委嘱
2011年3月
宮城県災害医療コーディネーターとして石巻医療圏の医療救護活動を統括
2012年10月
東北大学病院総合地域医療教育支援部教授就任
2022年
卒後研修センター副センター長、総合診療科科長、漢方内科科長兼任
2022年4月号
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外科医を志す

先生が外科を専攻しようと思われた理由をお聞かせください。

私はあまり真面目な学生ではなく、成績が悪いということを自覚していました。精神科に行けば、父と比較されてしまうという気持ちもありました。でも道端で倒れている人にどうにかしてさしあげられる、最低限のプライマリケアを学び、手にスキルをつけたいと考えていたんです。しかし私が卒業した頃、救急医学は未分化で、東北大学にも講座がありませんでしたし、ACLSのコースもありませんでした。そこで「外科かな」と思って、救急にも近い外科にしたのですが、外科も相当に頭を使うことが分かり、非常に苦労しました。

卒業してすぐに公立気仙沼総合病院で研修されたのですね。

東北大学の内科と外科には卒業後すぐに入局するのではなく、関連病院で2、3年の研修が終わったあとで入局するシステムになっていました。それで、どこかの関連病院で研修しないといけないということで、あまり深く考えず、テニス部の先輩方が代々研修されてきて、その中でも信頼している先輩がいらっしゃる公立気仙沼総合病院(現 気仙沼市立病院)に行くことにしました。今のようなマッチングの試験や面接もなく、挨拶に行くだけで決まりました。

公立気仙沼総合病院でどのような研修医時代を過ごされたのですか。

私はごく一般的な、出来の悪い研修医でしたが、手術の基本はほとんど気仙沼で教わりました。上級医はテニス部の先輩でしたが、指導医は第二外科からいらしていた遠藤渉先生でした。東日本大震災のときは院長だった方です。遠藤先生は手術の天才で、私もその薫陶を受けたのですが、期待には沿えなかったですね。手術に関しては下手ではないのですが、そこまで上手でもないという自覚があります。おそらく性格的なものだと思いますね。「石井先生は石橋を叩いて壊すような人だ」とか、色々と言われていました(笑)。

どういう方なら手術に向いているのですか。

外科手術はスポーツに似ています。はっきり言って、才能です。空間認識能力や空間識別能力、決断力がある人が向いていますね。誰でも解剖学を学ぶことはできますし、解剖についての知識はあります。でも人間の身体は少しずつ違うものなので、外科医にはこれは切っていいとか、切ってはいけないといったことを瞬間的に判断する力が求められます。人間の身体は本みたいに、膜の重なりでできているんですよ。その膜がどういう構造になっていて、どの膜とどの膜の間に入っていくと、出したい血管や臓器が出せるのかという話であって、手先が器用だとか、そういう話ではありません。

それは才能ですね。

私にはそういう才能があまりありませんでした。もちろん普通のレベルのことはできますが、それは努力すれば誰でもできます。でも第二外科には才能の塊みたいな人がごろごろいました。「何で、それを切れるの」「何で切っても、血が出ないの」みたいな人にはたとえ後輩であっても勝てる気がしなかったです。私が大学を卒業したときに教授でいらした森昌造先生や今の総合外科の教授をしている亀井尚先生は天才ですね。第二外科にはそういう天才が大勢いて、皆偉くなっています。私は石巻赤十字病院の外科部長ではありましたが、プレイヤーとしては普通で、ご承知のように仕組み作りや人の手配といったマネジメントをする監督やコーチ向きでした。

研修医時代に思い出に残っていることはどんなことですか。

外科の修行中にうまくいかなかったときに、和賀井啓吉病院長が「人生は全て修行だよ」という声をよくかけてくださったことです。最後まで諦めずに取り組みながら自分を磨けということだったんでしょうね。また遠藤先生からは「世の中は色々だから」と言われていました。これは自分だけが正しいと思うな、謙虚に柔軟であれということで、医師になりたての私には有り難い教えでした。

そして研修を終わられ、第二外科に入局されたのですね。

これは公立気仙沼総合病院が第二外科の関連病院だったためで、そのまま自然に入局しました。

岩手県立遠野病院

岩手県立遠野病院にも勤務されたのですね。

大学院で学位を取ったあとで、「遠野に行け」と言われたので行きました。岩手県内の主要な県立病院の外科はほとんど第二外科の関連病院で、遠野病院は小さいですが地域唯一の総合病院であり、その一つでした。遠野は氷点下13度になるような寒いところで、人口も少なく、寂しい思いもありました(笑)。これは"御礼奉公"と言われているもので、学位を取ったあとは関連病院に2、3年勤務するというルールがあったんです。医局制度は奴隷制度という人たちに聞かせてやりたいのですが、こんなに素晴らしい制度はないですよ。若手のばりばりの医師が関連病院に2、3年勤務するというローテーションの仕組みを医局が作ったことで、地域医療が回ってきたんです。そういうことを知らないで、「医局に入るのは奴隷になること」みたいなことを言わないでほしいです。

どうして遠野になったのですか。

行く病院は教授や医局長が決めるのですが、永久就職するわけではないから、どこにでも行くというスタンスでした。私の場合は実験をしていたところに医局長から電話があり、「学位研究もうすぐ終わるの?」と聞かれたので、「もうすぐ終わります」と答えたら、「来月から遠野に行って」と言われました。東北大学には学閥がなく、出身大学がどこであっても、医局に入れば皆が同じという考えがあります。でも、私の同期の他大学出身者は仙台市内の病院に行きましたから、逆に「お客様にはいいご飯を出す」ところがあるようです(笑)。「いいや、石井は遠野で。文句言わないだろう」と思われた節があります。

遠野病院はいかがでしたか。

しばらく臨床から離れていたこともあり、外科医として頑張っていました。小さな病院でしたので、上司と私しか常勤医師がおらず、週に3日ほど若手医師が医局から来て、3人で回していたんです。その3人目として働いていた人たちも今は皆、准教授などになって、偉くなっています。上司はいい方でしたが、標本整理や手術前後の説明、患者さんのご家族への説明、カルテの指示書き、硬膜外麻酔のチューブ挿入といったことなどは全て任せられたので、仕事は多かったです(笑)。赴任するときには1年の約束でしたが、結局4半年ほど遠野病院で過ごしました。

(5月号に続く)

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