産業医・老健10年の私が、制度改革の荒波で「理想の看取り」と「通勤30分」を死守するまで

2025年12月7日 産業医K

迫り来る「強化型」の波――ベテラン老健医師が感じた現場の地殻変動

迫り来る「強化型」の波――ベテラン老健医師が感じた現場の地殻変動
医師として歩んできた道は、時代と共に変化してきました。産業医として約10年、企業の健康を守り、その後の10年は介護老人保健施設(老健)の管理医師として、高齢者の穏やかな生活を支えてきました。老健での勤務は、急性期病院のような慌ただしさこそありませんが、そこには独自の難しさとやりがいがあります。しかし、近年の介護報酬改定により、老健を取り巻く環境は劇的に変わり始めました。かつての老健は、いわば「在宅と病院の中間」という曖昧な評価が許されてきました。しかし、改定によって「超強化型」「強化型」といった区分が明確化。国は老健に対し、よりアグレッシブな在宅復帰支援を求めるようになったのです。私の前職の施設も、この波に抗えず「強化型」への転換を目指し始めました。多職種連携を強化し、在宅復帰率を高める。それは社会的には意義のあることですが、私個人にとっては、これまで大切にしてきた「一人ひとりの入所者とゆったり向き合う医療」のバランスが崩れ始める予兆でもありました。「今の環境で、自分の理想とする終末期ケアが続けられるだろうか」制度の変化は、時に現場の医師に、望まぬ働き方の変更を迫ります。私は60代を目前にし、残りのキャリアをどこで、どう過ごすべきか、真剣に悩み始めました。

「車を持たない」という制約と、看取りに対する私の哲学

「車を持たない」という制約と、看取りに対する私の哲学
今回の転職において、私には絶対に譲れない条件が3つありました。第一に、**「公共交通機関での通勤30分圏内」**であること。私は車を所有しておらず、移動はすべて電車かバスです。年齢を重ねるにつれ、長距離の通勤は体力的な負担が大きくなります。第二に、「当日の看取りがないこと」。これは私のライフスタイルと密接に関わっています。夜間に急変があった際、車があればすぐに駆けつけられますが、公共交通機関に頼る身では、深夜の呼び出しに即座に対応することが物理的に不可能です。そのため、「看取りは翌朝」という方針を掲げている施設でなければ、無責任な対応になりかねないという強い懸念がありました。第三に、**「強化型を無理に目指していない、従来型の良さを活かした施設」**であること。コンサルタントの方には、「非常に難しい探し物になる」と言われました。都市部で通勤が便利な場所にある老健は、その多くが高い収益性を求めて「強化型」へと舵を切っているからです。さらに、「当日の看取りなし」という条件が、多くの候補をリストから削ぎ落としていきました。

絶望的なリサーチ――「コロナ禍」というもう一つの壁

絶望的なリサーチ――「コロナ禍」というもう一つの壁
リサーチは困難を極めました。コンサルタントが私の通勤圏内にあるすべての老健を当たってくれましたが、返ってくる答えは「募集なし」か、「当日の看取り必須」のどちらか。追い打ちをかけるように、世界は新型コロナウイルスのパンデミックに突入しました。施設側は外部からの受け入れに慎重になり、転職市場は一気に冷え込みました。私は既に現職の退職を決めており、このままでは無職の期間が長引くリスクがありました。「先生、条件の優先順位を見直しませんか? 通勤時間を延ばすか、あるいは看取りの条件を緩めないと、候補がゼロです」コンサルタントからの苦渋の提案。しかし、私は首を縦に振ることはできませんでした。妥協して転職しても、数年後に体力が続かなくなれば、また同じ悩みを抱えることになる。「焦らなくていいです。間が空いても構わない。私の生活を守りながら、最後まで地域に貢献できる場所を、もう少しだけ探させてください」私は、いわば「待ち」の姿勢を貫く覚悟を決めました。

奇跡の電話――他者のキャンセルが手繰り寄せた「運命の椅子」

奇跡の電話――他者のキャンセルが手繰り寄せた「運命の椅子」
それからしばらくして、一本の電話が入りました。それは、以前「別の先生でほぼ内定が決まりそう」と断られていた、私にとって唯一の希望だった老健からのものでした。「決まりかけていた先生が、ご事情で急遽辞退されました。もし以前おっしゃっていたF先生がまだお探しでしたら、ぜひ一度お会いしたいのですが」まさに、奇跡のようなタイミングでした。転職には、実力や経験、そして条件の整理が必要不可欠ですが、最後の最後でモノを言うのは「運」と「縁」なのだと痛感した瞬間です。翌日、私はすぐに面接に向かいました。施設は自宅から30分以内。看取りの方針も翌朝対応が基本。そして何より、現場のスタッフの方々が、制度に振り回されることなく、入所者の穏やかな余生を最優先に考えている温かい雰囲気がありました。理事長様との面談では、私の10年の老健経験を高く評価していただきました。 「F先生のようなベテランに、腰を据えて診ていただけるのが一番の安心です」 その日のうちに、双方合意での入職が決まりました。

時代の変化を乗りこなす――ベテラン医師としての新章

時代の変化を乗りこなす――ベテラン医師としての新章
今、私は新しい施設で、理想に近い日々を過ごしています。 朝、定刻の電車に乗り、穏やかに診療を始め、夜は自宅で自分の時間を大切にする。看取りについても、スタッフとの連携により、家族と本人が納得できる形を翌朝にしっかり整える。私の「車を持たない生活」も、この施設の方針があったからこそ成立しています。今回の転職で学んだのは、**「時代が変わっても、自分の中に譲れない軸を持つこと」**の大切さです。診療報酬や介護報酬の改定は、これからも医師の環境を変え続けるでしょう。しかし、その波にただ飲み込まれるのではなく、プロフェッショナルとして自分が提供できる価値と、守るべき生活を天秤にかけ、最適な場所を探し続ける。もしあなたが、今の制度や環境の変化に疲れ、自分に合う場所などもうないのではないかと諦めかけているなら、伝いたいことがあります。「タイミングと運は、信念を持って探し続けた者にだけ微笑む」専門スタッフとのチームワークを大切にしながら、人生の最終章を支える医師として、私はこれからもこの場所で走り続けます。10年後の自分もまた、笑顔で患者さんの隣に座っていられるように。