神津 仁 院長

神津 仁 院長
1999年 世田谷区医師会副会長就任
2000年 世田谷区医師会内科医会会長就任
2003年 日本臨床内科医会理事就任
2004年 日本医師会代議員就任
2006年 NPO法人全国在宅医療推進協会理事長就任
2009年 昭和大学客員教授就任


1950年 長野県生まれ、幼少より世田谷区在住。
1977年 日本大学医学部卒(学生時代はヨット部主将、
運動部主将会議議長、学生会会長)
第一内科入局後、1980年神経学教室へ。
医局長・病棟医長・教育医長を長年勤める。
1988年 米国留学(ハーネマン大学:フェロー、ルイジアナ州立大学:インストラクター)
1991年 特定医療法人 佐々木病院内科部長就任。
1993年 神津内科クリニック開業。

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政治家に何を期待するというのか・・・

 12月に選挙があるということだが、何を以て解散を行ったのかさっぱり分からない。政治家のやることは我々の日常生活とかけ離れていて、見えないところでいろいろと画策しているのだろうが、今回の選挙にはどうも違和感があって投票所には足が向きそうにない。そういえば、名城大学の郷原信郎氏が「現時点での衆議院解散は憲法上重大な問題」と論評していた。

「安倍首相が衆議院解散を決断し、年内に総選挙が行われる見通しなどと報じられている。民意を問うべき重大な政治課題があるわけでもないのに、自公両党で圧倒的多数を占める衆議院を、任期半ばで解散するというのは、常識的には考えられない。それだけでなく、今回の解散は憲法が内閣に与えている衆議院解散権という点からも、問題がある」というのだ。

「もともと、議院内閣制の下では、内閣は議会の信任によって存立しているのであるから、自らの信任の根拠である議会を、内閣不信任の意思を表明していないのに解散させるのは、自らの存在基盤を失わせる行為に等しい。予算案や外交・防衛上重要な法案が否決された場合のように、実質的に議院による内閣不信任と同様の事態が生じた場合であればともかく、それ以外の場合にも無制限に解散を認めることは、内閣と議会との対立の解消の方法としての議会解散権の目的を逸脱したものである。

 現行憲法は、衆議院議員の任期を原則として4年と定め(45条)、例外としての衆議院解散を、条文上は内閣不信任案が可決された69条の場合に限定している。そして、直接国民の意思を問う国民投票としては、憲法改正が発議された場合の特別の国民投票(96条)しか認めていない。このような規定からすると、内閣が、自らを信任している議会を解散することによって国民に信任を求めるということは、憲法は原則として認めていないと解するべきであろう」

 憲法が認めていない解散をして、何をめざすというのだろうか。そういえば、共同通信がこんなことを報じていた。

「自民党行政改革推進本部(河野太郎本部長)は19日、各府省の事業の無駄を撲滅する方策をまとめた提言を公表した。医療費抑制のため、全ての処方箋に安価な後発医薬品を調剤するよう求めたのが柱で、財政再建に取り組む姿勢を衆院選の公約に反映させる方針だ。提言は、先発医薬品を調剤する場合、処方箋にその必要性を明記することを医師に義務付けるべきだと訴えた。河野氏は19日、国会内で記者会見し『先発医薬品を希望する場合には後発品との差額を(患者の)自費負担でお願いしたい』と説明した」

 このニュースを読んであなたはどう感じるだろうか。医療の専門家である医師の意見を全く無視した、経済だけのものいいに違和感を感じないだろうか。

 私が大学生の時のことだが、父親が速度違反や酒気帯びで交通警官に交通切符を切られた時に、何回かウィスキーを持って、あるお宅に届けに行かされることがあった。その家の主は警察のお偉いさんで、父が医師会活動で知り合った人のようだった。昔は交通切符が切られると、事務処理は紙ベースで行われるので、中央への情報移転される前に警察署で情状酌量が出来たのだ。そのお礼にと、ウィスキーや菓子折りを持って行くのが当時の日本の風習だった。おそらく、同じようなことは世界中のどの国でもやられていたし、今でも袖の下や鼻薬をきかせることが物事を上手く運ぶための潤滑油として必要な国も少なくない。

 今では、交通切符はすぐにコンピューター処理されるので、こうした情状酌量などはあり得ないのだが、我々の中には「あの人に頼めばなんとかしてくれるのではないか」という幻想がまだあって、「あの人」といわれる議員や政治家にお願いすることも一般的には多いのではないだろうか。私も、そんな幻想を持っていた時があって、ある都議会議員に身内の交通切符の処理についてなんとかならないかと相談したことがあった。議員というのはいいかげんなもので、出来ないと分かっていても「なんとかしてみましょう」という。こちらは一縷の希望をもっているので、議員の秘書から「担当の〇〇さんを訪ねてもらえば分かるようにしておきましたから」といわれれば何とかしてもらえるのかと思ってしまう。お礼にと高価な牛肉を贈ったが、結局は何の役にも立たなかった。「都議会議員の〇〇さんからいわれて来ました」といったら、「何のことですか?」とけんもほろろだった。そこで幻想から醒めたのだ。善良なる市民は偽善のスペシャリストである「あの人」たちに近づいてはならないと。

 議員の親玉といえば総理大臣だが、この総理大臣がまた国民を騙し続けているのだから、よくよくいろいろな情報を吟味する必要がある。吉田茂首相といえば、日本の総理大臣の中でも傑出した人物という事になっているが、実は日本が敗戦の時に、米国から提示された屈辱的な内容の協定(米国が望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保する)を国民に隠して秘密裏に締結し、今の今までその影響の元に、日本が正当な独立国としての要件を得られないままになっている、その原因を作った張本人なのだ。この詳細については元外務省国際情報局長孫崎享氏の著書「戦後史の正体」に詳しい。その116ページに以下の記載がある。

「1951年9月8日、日本はサンフランシスコで講和条約(平和条約)と日米安保条約に調印しました。このふたつの条約は戦後日本の基礎となっています。
 しかし、よく見ると調印に際しての両者のあつかいは驚くほど異なるのです。
講和条約はサンフランシスコの華麗なオペラ・ハウスで、48か国の代表が調印して結ばれました。では、日米安保条約はどうだったでしょう。
 米国側は、アチソン(国務長官)、ダレス(国務省顧問)、ワイリー(上院議員)、ブリッジス(上院議員)、の四人が署名しています。では日本はとみると、吉田首相ひとりです。なにか変です。米国側が4人署名し、日本側がひとり、こういったアンバランスなことは、ふつう外交の世界では起こりません」

 吉田首相一人が秘密裏に署名した日米安全保障条約とは、日本全土における米軍基地の自由使用を認める一方、米国は日本の防衛義務は負わないとするきわめて不平等な条約だったのだ。この日米安保条約にもとづいて駐留する在日米軍と米兵他の法的地位を定めた協定が「日米行政協定」だ。1952年2月28日調印、同年4月28日に発効したこの協定は、占領中に使用していた基地の継続使用、米軍関係者への治外法権、密約として合意された有事での「統一指揮権(日本軍が米軍の指揮下に入る)など、占領中の米軍の権利をほぼすべて認めるものだった。1960年に岸政権のもとで日米安保条約は改定されて「日米行政協定」は「日米地位協定」と名称を変えたが、「米軍が治外法権を持ち、日本国内で基地を自由使用する」という実態はほとんど変わらなかった。そして、この協定は国会での審議や批准を必要としないものとなった。

 日本政府は、敗戦した年を「終戦」と偽っているが、実際には敗戦し、占領され、連合国軍に統治支配された。連合国軍とはいいながら、ほぼ米国がその責任権限を握っていたから、日本は米国の統治支配下に入り、日本人は被支配国民となったのだ。当然、統治国である米国の支配下において政治家も官僚も米国の命令により動くことになった。法の支配も米国の法律の下に置かれた。これら全ての統治活動はGHQ(General Headquarters=連合国最高指令官総司令部)が行い、そのトップに君臨していたのはコーンパイプで有名なマッカーサー司令官だった。

 占領軍による米国の基本政策は「第二次大戦中、日本が占領した国の水準を上まわらない」ようにすることだった。当時の外務省調査局長の与謝野が「格子なき牢獄」と表現したように、言論の自由も思想の自由も、結社の自由もなく、ただ指示を受けたことを唯々諾々とやるしかなかった。そうしなければ、いつどこから処罰が下されるか分からない。日本経済はどん底に落ちた。米国は日本を二度と立ち上がれないように低水準な国のままにしておきたかった。戦前の五大財閥(三井、三菱、住友、安田、富士)を解体し、主要親会社67社、子会社および孫会社3658社が整理され、さらに財閥会社が株主として重要な地位を占めていた395社も整理された。そして、旧財閥を基盤とする戦前の経済人の力を弱め、代わりに米国に協力することにまったく抵抗のない人々を日本の経済界の中心にすえた。その中心となったのが経済同友会だった。

日本を低水準の三流国にしておきたかった米国だったが、第二次世界大戦後の米露「冷戦」体制が進行し、朝鮮戦争のための弾薬補給基地、共産主義への防波堤としての役割を日本に担わせるために方針を変更する。米国軍部は「日本を占領しているほうが日本を軍事的に自由に利用できる。だから、講和は先のばしにすべきだ」と主張したが、当時国務省顧問だったダレスは「日本を早く独立させ、自由世界の一員とさせるべきだ」と主張して軍部の反対を押し切った。ダレスの考えはこうだ「冷戦が起こったので、日本とドイツを利用し、ソ連との戦争の防波堤にする。そのためには早く独立させたほうがよい」「経済力をつけさせ、共産主義の防波堤にする」「同時に日本の基地は自由に使う」、これらはすべて米国の国益にそっての判断であり、けっして「日本のため」を考えて進めた政策ではなかった。そして、日本は1951年9月8日に独立する。

 しかし日本と米国の間には、なお引き続いて「日米地位協定」が厳然と存在し、日本国中に米軍基地が存在する。基地の周辺では米兵による事件が後を断たず、しかもその事件を日本の法律で裁くことが出来ないでいる。それでも日本の国会議員たちは国民の税金を使い「思いやり予算」という名の袖の下を出し続けている。



参考文献
1) 郷原信郎が斬る http://nobuogohara.wordpress.com
2) 孫崎 享:戦後史の正体, 創元社, 2012.
3) 前泊博盛:日米地位協定, 創元社, 2013.

2014.12.01 掲載 (C)LinkStaff

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