あの人に聴く
シリーズ「あの人に聴く」―10回―
慶応義塾大学医学部放射線科講師 近藤 誠先生
(前編)

近年、医療従事者が医療過誤に問われることが増え、患者も医療について知る権利を訴えるようになっています。また不祥事を隠すことで信頼を保とうとしてきた医療機関も徐々にではありますが、公開することで信頼を得るという動きが出てきています。今回の「あの人に聴く」は慶應義塾大学医学部放射線科講師の近藤誠先生です。その著書『患者よ、がんと闘うな』(文藝春秋)では検診やがん治療に対して疑問を投げかけ論争を巻き起こし、同時にセカンド・オピニオンの重要性を早くから訴えてきました。乳がん治療では早くから乳房温存療法を実践し、患者数、温存率ともに日本で最高の実績を持ち、一方で"患者の権利法をつくる会""医療事故調査会"の世話人を務めるなど、患者本位の治療を実現するために、医療の情報公開を積極的に進めています。それら活動を中心に2回にわたってご紹介します。

近藤先生は昭和48年に慶応義塾大学医学部を卒業し、同大放射線科に入局。その後、昭和54年から55年にかけてアメリカのロスアラモス国立研究所へ留学されました。帰国してからは、がん治療を専門とした医療を続けるかたわら、執筆活動を通じて広く社会に医療のあり方、問題点を提起してきました。その著作も『ぼくがすすめるがん治療』(文藝春秋)、『なぜ、ぼくはがん治療医になったのか』(新潮社)、『本音で語る! よくない治療ダメな医者』(三天書房)、『「がん」ほどつき合いやすい病気はない』『「治るがん」と「治らないがん」』 『安心できるがん治療法』『医原病』(以上、講談社)など数多く出されています。先生ご自身は、昭和58年に慶應義塾大学医学部放射線科講師となり、現在に至っています。
 
消去法で放射線科医に

―ご実家は開業医だったそうですね。
普通の家庭と違うところは家に注射器があるということですね。それで基本的に注射に懐疑的になりました。

―すぐ打たれますからね。やはりトラウマになりましたか?
それはあるね。ですが、こういった医療は必要なのかな? という疑問も持ちました。つまり風邪なら抗生物質を打てばそれで良いのか、他にもやり方があるのではないか、とね。こうした体験が今の医療を吟味する姿勢に影響しているのではないかと思っています。

―「医者になって継いでくれ」と言われて育てられていたとうかがいました。

言われてはいたが、小学校の頃までは遊び好きで勉強嫌いだったから、とても自分が医者になれるとは思えなかった。ところがなぜか成績が上がって、慶應の中等部に受かってしまった。受かったとはいえ成績順位はビリのほうだったので、勉強法を夜型に変えてみたが、リズムが狂ってダメだった。それで昼型に変えたら成績が上がった。高校は1クラス50人でR組まであるほどの生徒数で、落第生も多かった。賭けマージャン事件なんていうのもあって、これは「周りに流されちゃいけない」と考え、本気で勉強しようと心に決めて実行した。

―やがて医学部へと進学されたわけですが。

将来何をやりたい、という希望はなかった。こんなこと言うとひんしゅくを買うかもしれないけど、医学部に進んだのも成績が良くなり、どの学部でも進学が可能になったからだった。サラリーマン生活というのも実家が開業医だったので想像がつかなかったし、そうかといって自由業だと将来的に不安がある。同じ自由業であれば医者が良いかと考えた。それで医学部を選んだわけで、はなはだ動機としては曖昧なわけだ(笑)。大学ではボート部と茶道部へ入部して、クラブ活動と勉強に熱中していました。

―放射線科医となった経緯を教えてください。
将来やりたいことがなかったのは相変わらずだが、研修先を決めねばならなくなり、不器用だったから外科系は外した。そして理論的なことが好きだったので内科系を考えた。しかし勤務も大変で、時間も不規則と聞いていたので迷った。当時、僕は同級生だった妻と学生結婚していて卒業時には子どももいた。妻も医者になるわけで、家庭との両立のため比較的規則正しい勤務体制の診療科目が良いと思った。結果的に残ったのが放射線科だった。それでも将来は放射線診断学を身につけて内科へ転科しようと思っていた。でも放射線科に3年間籍を置いてみると、居心地が良かったので、今でも変わらずやっています。

―その後、アメリカへ留学されました。
放射線診断、放射線治療、核医学の3つを3年間学び、研修後は治療と核医学の二股をかけ、博士号は核医学で取得した。しかし両方を専門にはできないと思い、放射線治療をやっていこうと考えた。そんな時、アメリカでの放射線治療実験を手伝ってくれとの話があった。僕は研修医になった年にECFMGという、アメリカが外国人向けに行う医師国家試験に合格していて、向こうで働く資格があった。それで採用になり、ニューメキシコ州のロスアラモス国立研究所パイ中間子施設へ1年間行くことになった。

―留学によって先生が得たものも多かったと思いますが。
主治医が患者さんに病気のことを率直に話しているのに新鮮さ感じた。それに結構自由時間もあったので、放射線治療関係の論文を多数読むことができたことも良かったな。なによりアメリカでは放射線治療が、がん治療法として十分に認知されていることを知り、帰国したら放射線治療の利点を他科の医者に知ってもらうための活動をしようと思った。乳房温存療法を知ったのもこの頃でした。

―帰国後、認知活動を実行されましたが、国立東京第二病院(現・東京医療センター)へ出向されていますね。慶應と比べてどうでしたか。
なかなか居心地は良かったよ。他科の医師とも食堂で会って自由に議論したりできる場だった。ただ、帰国してから患者さんの治療法を巡って、衝突することがあった後の出向人事だった。その頃、義父が癌で亡くなったこともあって虚無的になっており「俺もこれで慶應には戻って来られないな」と思いながら出たわけだ。それが1年ちょっとで戻された。講師になったのはその1年ぐらい後の昭和58年だった。慶應に戻って、放射線治療をもっと知らしめなければいけないし、そもそも医者がその良さを知らないのであれば、その説得のために論文を書こうと思い、今までの成績をまとめたものを出すようになった。英文論文を1年間に10本ぐらい書いたこともある。

―短期間に集中した執筆をしていたことが、現在の数多くの著書の出版につながっているのでしょうね。
そうかも知れないね。今も何冊かを平行して進めていますよ。
 
患者に決定権を

―慶應へ戻られてから、先生は乳房温存療法に関わるようになり、この分野では日本のパイオニアとされていますが、当時は外科との意見の相違がかなりあったと思います。
結果から見ればすごい抵抗があったわけだが、最初はそこまではないだろうと思っていた。昭和58年に僕の姉が乳がんになり、まだ初期の小さながんで乳房温存に向いていた。欧米ではどんどん行われていて、しかも「くじ引き試験」といって、患者さんを二群に分けて従来の治療法と新しい治療法を行う比較試験でも成績が変わらないという結果も出ていた。唯一障害となるのは日本でほとんどやったことがないということだけだった。僕が乳房温存療法を良いと思っても、姉が良いと思うかはわからない。グラフまで見せて説明した。他の患者であれば言わなかったが、肉親だったし「僕だったら温存療法を選ぶ」と言った。同意してくれたので行ったが、その後は患者さんから「切るべきかどうか」と僕に聞いてきても、もう一回押し戻して「あなたが決めなさい」と答えることにしている。ちなみに姉は再発転移もせずに済んでいる。

―温存療法はその後どうなりました?
数人に対して行った後に「日本でも温存療法ができるんだ」と成績を発表するようにした。しかし、まったく反響がなかった。温存療法を最初に取材して取り上げてくれたのは読売新聞だったが、受診に来たのはたった一人。翌年に朝日新聞に働きかけて掲載してもらったがやはり数名だけ。ところがその記事を読んだ患者さんが、慶應に来て外科に入院させられ、僕の知らないところで乳房切除の話が進むということがあった。そのことをアルバイトに来ていた看護学生から偶然聞いて驚いた。つまりその患者さんは、僕と担当の外科医が相談した上で乳房切除することに決めた、と思っていたわけだ。

―患者さんにとっては、同じ病院だから、そう思うのは自然でしょうね。

うん。まあ、その患者さんに会ってみると、温存療法を受けたいと言ったので、退院させて僕の同級生が手術して、あらためて僕が放射線治療をした。このことがあっても「直接『俺の患者に何をするんだ』なんて、その医者に言ってもしかたがないな」と思った。これは世の中を変えるしかないと考えた。個々の医者に文句を言っても、誰かがまた繰り返すだけだからね。しかし、大学病院でこんなことがまかり通って良いはずがなく、もっと開かれた場所にしようと思って情報公開を始めた。当たり前のことだが、患者さんには正直でないといけない。つまり隠し事をしないことだ。僕は病名を患者さんに100%告げるということを、おそらく日本で最初に行ったと思う。80年代の前半からそうしてきた。


―告知は先生のポリシーに照らして、するべきだと考えられたからですか?

最初からポリシーがあったというよりも、必要から生まれた。知らせたら患者さんが自殺するのではないかという懸念があったのは事実です。しかしがん治療をする上では、きちんと認識していただかないとできない治療もある。例えば僕は一時期、抗がん剤で悪性リンパ腫を治療していたことがある。その場合「慢性炎症ですよ」と言ったら、抗がん剤を十分に使えないわけだ。しかし「あなたは、がんだけど治る可能性が高いから、抗がん剤を使いますよ」と言えば納得していただける。こうしたことがあって、知らせても不都合がないことがわかってきた。それで知らせる対象を広げていって、転移にしても再発にしても告げるようになり、数年のうちに100%になった。こうなってくると今度は「何で知らせないんだろう」となってくる。きちんと病名を告げて、情報を患者さんと共有したほうが良いと思って、著書にも書くようになった。もう一つポリシーを挙げるとすれば、自分の患者さんが後で後悔しないようにしたい。そのために治療法を患者さんに決めてもらう。

―自己決定権ですね。
うん。AとBの二つの治療法があるとして、どちらかを選びその治療がうまくいけば良いが、悪い結果が出ると、えてして患者さんは後悔する。「自分は何でこんな治療を受けたのか、あの時医者はこう言ったじゃないか」となって、患者さんは自分を責め医者を恨むことになるわけだ。こうしたことは100人のうち1人でもいたら良くないと思う。お互い不幸だからね。99人の患者が満足していれば良いじゃないかと思うかもしれないが、僕は残りの一人がいることが嫌だ。これをなくすためには100人にきちんと説明して、治療前に納得してほしい。患者さんには納得して、自分で決めてもらいたいのです。僕が説明して「この治療法でいきましょう」と言うと、その時は納得しても後悔する結果になるかもしれない。よく患者さんから「先生だったらどうしますか?」と聞かれる。その時は「僕はあなたじゃないから」と言って押し戻すわけです。

―押し戻す、ということはもう一回患者さんに考える時間を持っていただくこと?。
そう。あと「質問しなさい、質問には何でも答えてあげます」と言う。ただ、どうみてもやめたほうが良い治療は「やめておけ」と言いますよ。
 
治療しないという選択肢


―先生はセカンド・オピニオンを求められることも多いとお聞きしています。しかしセカンド・オピニオンを求める場合は、たいてい最初に受けた説明や治療法に納得がいかないからであって、第三者に意見を求めるということは実は自分で答えを出していることが多いですよね。
そうですね。例えば早期の胃がんの治療法はいくつかある。場合によっては手術しないで様子をみることもできるし、手術を受けたくない患者さんもいる。でも中には手術を受けたいと思う患者さんもいる。その場合、同じ手術を受けるなら、合併症を出すことの少ない病院を選ぶことができるかを考えるわけだ。僕としても、進行した胃がんで肝臓へ転移しているのに「手術はどうか」と問われれば「やめておけ」と言いますが、早期がんが見つかって手術はどうかとなれば「やめておけ」と言えるほどのデータを持っていない。だから患者さんが手術を受けたいのであれば、どの病院で受ければ良いかを相談する。一方で手術を受けたくない早期がんの患者さんに対しては、僕は手術をしたほうが良いという根拠も持っていない。

―その場合、どうされるのですか?
実際に僕の担当する早期胃がんの患者さんで十数人の方は「様子をみたい」と言うので、手術をしないで経過観察をしている。すると大部分は、がんもたいして大きくならずに体も調子が良い。こうした事例を見てみると「手術したほうが良いですか?」と問われたら「良いとは言えないな」という答えになる。聞いてきた患者さんも手術に乗り気でないので、様子をみるかということになる。今後、早期胃がんに関しては、様子をみている患者さんの数が増えて臨床データが集まり、あえて手術をしなくても良いという根拠が固まれば「手術をやめたほうが良い」という言い方に転じる時が来るかもしれない。

―様子をみる、とはどのぐらいの期間ですか?
調子が良ければずっとです。何年も経過を見ている患者さんもいるし、がん自体が消えてしまうこともある。

―消えてしまう? それは自己治癒能力で、ということですか。
何ででしょうね。検診で見つかったものは、消えるものがかなりある。子宮頚がんでそれを裏づけるデータを最近探し当てた。発表する機会もあると思いますよ。僕は自分の患者さんに全力を傾けることを常に念頭においているが、これは何でも治療するのではなく、場合によっては治療しないという選択もあるということ。そのためには必死に勉強をする。知らないことは知らないと言うけど、そう言うのは悔しいので勉強を続けている。考えてみると大学を卒業してから、ずっと文章を読んでいる人生だな。

―部屋中に本がありますが、読書量もすごいでしょうね。
僕は実験はやらないから、暇な時は読書か原稿を書いているかのどちらかです。一日12時間働いているうち、診療していなければ机の前にいる。

―最近はどういった本を読まれていますか?
単行本はあまり読まないな。ほとんど医学書。『New England Journal of Medicine』『Lancet』には目を通しています。そんなに数は増やせないけどね。

―毎週来るのですぐたまりますからね。
そうそう(笑)。


―次回は「世の中を変える」という先生のお話を中心にお聞かせください。(次号へ続く)

 

2001.10.1掲載 (C)LinkStaff

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